青山学院大学 AGU NEWS Vol.7
AGUニューズ[2001年7~9月号]
青山学院大学・広報入試センター広報課
〒150-8366 東京都渋谷区渋谷4-4-25 TEL.03-3409-8111(代表)




●2000年度
 就職活動を振り返って

●2001年度
 教員採用試験を終えて

●本学大学院への進学について


●国際協力の現場に触れる
 JICA等の講師による連続講義

●第3回
 AMLオープンフォーラム開催

●青学ベンチャー・ネットワーク
●経済学部・経済学会共催
 日本郵船株式会社社長講演会
 「統合する力―海を超えて、
 空へ、陸へ。21世紀の国際物流」



●英語資格取得者自己推薦入試
●海外就学経験者入試について
●東北学院大学総合定期戦
●2002年度一般入学試験日程
●2001年度
 進学相談会開催日程

●第8回大学同窓祭開催
 “あの日に会える”

●公開講座
 公開講演会のお知らせ



●地の塩・世の光


●高校1・2年生のための
 新キャンパス説明会

●新キャンパスいよいよ着工へ…
●校歌を着メロにしませんか?
●清里サマー・カレッジ
●シリーズ大学探訪7
 本多 庸一




青山学院大学の週間HOTニュース

青山学院公式ホームページ
www.aoyama.ac.jp



地の塩・世の光


青山学院長
国際政治経済学部教授
深町正信

 フランスのカトリックの作家ベルナノス(1888-1948)は色々な信仰の思想を書いていますが、代表的な「田舎司祭の日記」という作品(1936)があります。その中で、彼は新約聖書のマタイによる福音書第5章13節の「あなたがたは地の塩である」に関して大変に面白いことを書いていると指摘する人がいます。彼によれば、主イエスは「あなたがたは地の塩である」と言われたのであって、「あなたがたは地の蜜である」とは言われなかったというのです。本当に「あなたがたは地の塩である」と言われたのであって、「あなたがたは世の蜜である」と間違っても口にされなかったと思います。わたしはその一節がとても名言であると思いました。わたしたちは自らを甘く見がちであり、また、この世というものは蜜でなければならないと錯覚しているところがあります。そして多くの人がお互いにこの世というものは何の問題もないかのように甘い顔をして、ニコニコ笑顔で生活するのが聖書の示す生き方であると思っています。しかしそれは全くの誤解であり、間違った聖書の見方であります。

 主イエスは確かに「あなたがたは地の塩である」と言われているのです。この場合、イエスは塩という物質の辛く、しょっぱい味をイメージさせます。それが実は聖書の伝えるメッセージの中にあります。つまり地は神の恵みと裁きのもとにあり、蜜のように甘いものでなく、むしろ塩のような味であるということです。わたしたちは塩を口にすると、誰もがまず刺激的で、しょっぱいという反応を示します。
 それと同様に、主イエスの恵みは痛みと悔い改めを内に含んでいるのです。主イエスは伝道を開始したとき「神の国は近づいた、悔い改めて、福音を信じなさい」と言われました。この言葉は、譬えて言えば、外科医が病人の重く病んでいるところをメスで摘出するように鋭くその問題の核心を突いてくるのです。その結果、わたしたちは深く癒されて、新しく出直す力と決意を与えられるのです。そのように聖書が示す地の塩として生きるということは、わたしたちが決して甘い顔をして生きてゆくことでなく、この世を甘く考えて、チャランポランに楽しく生きることでもないのです。この地は、主イエスの十字架による贖いの愛によって、潔められ、癒され、救われなければならないところです。この主イエスの贖罪愛を宿すとき、わたしたちは塩となり他人の心を潔め、まろやかに味付けし、腐敗を防ぎ、人間らしく生ることが出来るのです。
 更に、主イエスがここで「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と言われていますが、この二つに共通している点は何か?どちらも自分自身を用いるとき、その効果が外にはっきりと現れることです。地の塩がただ壷の中にしまわれたままでは、何の効果ももたらしません。また、光にしても、闇の中で照らされなければ、その力を存分に発揮することが出来ないということです。光は闇の中に置かれてこそ、光としての力を十分発揮することになるのです。
 つまり、地の塩、世の光というのは、それ自身の性質と全く違うものの中に置かれると、その力を存分に発揮するのです。その場合、塩と光とはほんの少し、僅かでよいのです。少量でも、塩は味をつけるのです。また光は闇の中に置かれると、どんなに小さな光であっても、その光は闇の中にいる人々に大きな慰めと希望とを与えるのであります。



 主イエスが言われる「あなたがたは地の塩である」とは、わたしたちが主キリストの力を心に宿して、世の唯中に出て行くとき、わたしたちはそこを潔め、味付け、腐敗を防ぎ、保存の役目を果たす働きをなすことになるのです。しかしあなたがたに13節「もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取り戻されようか。もはや何の役にも立たず、ただ外に捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」と厳しく諭されています。
 塩が効き目を失うということは、少し可笑しいと思う人がいるかと思いますが、古代の塩というのは相当に不純物が混じっていたということです。したがって塩を放置したままにしておくと、直ぐに味が変わり、味が抜けてしまうことがよくあったそうです。
 更に、聖書に「また、あかりをつけて、それをますの下に置く者はいない」とあるのは、主イエスの全き愛のみがわたしたちを明るく、力づける本当の愛であり、それを隠す必要が全くないということであります。

 自分が聖書の言葉によって生きる者となるということは、口にするかしないかは別にして、地の塩、世の光とされて、はっきりとした信仰の旗印のもとに生きることであります。
 自分の信仰の灯火を人の目に隠したり、枡の下に置くようなことをすれば、それは光を求めている人に明かりが見えなくなってしまうばかりでなく、枡の中で酸素不足になって、大切な灯火すらきえてしまうことになります。むしろ、外の空気に触れ人の役に立つことによって、酸素が補給され、その光が輝きを増すのであります。
 青山学院のスクールモットーはこの聖書を典拠とする「地の塩、世の光」であります。社会にあって地の塩、世の光として生きることが青山学院の目指す教育であります。




1936年生まれ。東京神学大学神学部卒業、東京神学大学(神学部)大学院神学専攻修士課程修了、米国デューク大学大学院一年間留学(神学専攻)。銀座教会担任教師、経堂緑岡教会主任担任教師、鳥居坂教会主任担任教師。

●ページのトップへ戻る●

HOME PAGE COPYRIGHT:AOYAMA GAKUIN UNIVERSITY