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ポエジーをめぐる一考察 -社会と宇宙のはざまに橋架ける

青山学院女子短期大学<br>現代教養学科教授 齋藤 修三 [Shuzo Saito]

青山学院女子短期大学
現代教養学科教授 齋藤 修三 [Shuzo Saito]

ポエジーをめぐる一考察 -社会と宇宙のはざまに橋架ける

第3回 2018/5/26(土)

全体テーマ「文学と社会」と聞いて、まず思ったのは、文学作品を書いたり読んだりする営みが、社会に対して一体どのような意味を持つのか?というあまりに大きな問いだった。そこで自分の専門分野にこの問いを落とし込み絞り込んだところ、詩を書いたり読んだりする行為は、人間社会に対して何か積極的に貢献することがあるのか?という問いに行き当たった。そしてすぐ「貢献?ないかも…」という残念な返事が口をついて出かかった。

昨今の文学部不人気も、思えばこのような有用性志向が背景にある。若者の活字離れに始まり、国公立大の文系学部廃止論に至るまで、社会に役立つかどうかを性急に問うあまり、実用性を問わない「教養」や「虚学」が秘める「無用の用」の潜在力など、世知辛い世間ではまさに風前の灯。旗色が悪い文学のなかでも、とりわけその中枢に長くあり、最も重要なジャンルだったはずの詩は、社会の表舞台からほとんど姿を消しつつあるようにも見える。

そこで敢えて愚直な問いに本講座で向き合ってみたい。文学は社会にとって何か意味があるのだろうか。詩が私たちの社会生活に資する貢献など皆無であり、せいぜい個人の趣味や気晴らしでしかないのだろうか。

手がかりとしたいのが、谷川俊太郎氏の「ポエジー(詩情)論」である。現代日本における数少ない「詩人」である氏は、「詩はどこへ行ったのか」と題されたインタビューで、「詩情は詩作品の中にあるだけではなく、言語化できるかどうかもあやしく、定義しにくい。でも、詩情はどんな人の中にも生まれたり、消えたりしている。ある時は絵画に姿を変え、音楽となり、舞踊として現れたり」すると言う。「生活の中で感じる喜怒哀楽とはまったく違う心の状態」にさせ、「自分と宇宙との関係のようなもの」を感じさせるのが、ポエジーだと。

詩が読まれなくても、なるほどポエジーなら誰もが感じ取っている。社会生活に埋没しがちな私たち一人ひとりに、ふとした折に去来し、文化社会という人為的な温室の外部、自然や宇宙といった、より大きな世界にぽつんと放り出された気分にする。そんなポエジーは、単に日常の憂さを忘れる束の間の清涼剤なのか。それとも何かもっと大きなものを人間社会にもたらす可能性を秘めているのだろうか。

本講座では、AV資料を交えつつ谷川氏のポエジー論を一部紹介し、その妥当性を実際に詩や文学作品にあたりながら考えてみたい。ポエジーを通じて、文学が現実の人間社会にどのようにコミットしえるのか、可能性の一端だけでも触れられればと思う。

プロフィール

青山学院女子短期大学 現代教養学科教授
齋藤 修三 [Shuzo Saito]


青山学院大学文学部英米文学科卒業、同大学院文学研究科英米文学専攻修士課程修了後、米国ニューヨーク州立大学大学院留学を経て、青山学院大学大学院文学研究科英米文学専攻博士課程満期退学。
1990年青山学院女子短大に着任し現在に至る。
専門分野は近現代の英米詩、アメリカ文学、アメリカ研究、チカーノ・ラティーノをはじめとする米国マイノリティ研究。主な著書に『彷徨の詩学』(共著)(金星堂、1997年)、『アメリカのヒスパニック=ラティーノ社会を知るための55章』(共著)(明石書店、2005年)、『木と水と空と』(共著)(金星堂、2007年)等がある。