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おすすめの書籍を紹介します。

  • 【漢文学】川合康三『中国の恋のうた』(岩波書店)山崎 藍

    漢詩というと、どのようなイメージをお持ちでしょうか。
    高校の漢文の教科書では、自然や戦争の悲惨さなどをうたう作品を取り上げることが多いようです。そのせいか、漢詩は堅い、わかりにくいと感じている方もいらっしゃるかもしれません。
    ご紹介する川合康三『中国の恋のうた』(岩波書店)は、高校で扱われる機会があまりない「恋愛」がテーマです。
    昔の中国では、儒家思想の影響もあって恋をうたう詩歌は少ないとされています。
    しかし、人間が生活していれば恋愛は関心事のひとつ。中国も例外ではありませんでした。
    例えば、中国最古の詩集『詩経』の「狡童」。

     あのずるい人ったら、口もきいてくれない。
     あなたのせいで、わたしはご飯ものどを通りやしない。
     あのずるい人ったら、ご飯も一緒に食べてくれない。
     あなたのせいで、私は息さえできやしない。

    この作品を講義で紹介したところ、ある学生さんが「西野カナさんの『会いたくて会いたくて震える』みたいですね」と感想を書いてくれました。
    確かに、恋人が離れていく不安を、「苦しい」「つらい」といった心情表現を用いずに、身体に変調をきたす様子をうたうことで表現している点は似ているかもしれません。
    『詩経』は紀元前6世紀頃編まれたと言われています。
    2500年以上前に生きた人も、現代と同じような感覚で恋愛を表現したのでしょうか。興味は尽きません。
    他にも、激しい愛や断ち切れない恋など、様々なうたが、川合先生の美しい日本語訳とともに紐解かれます。教科書で触れる漢詩とは少し違った世界を垣間見ることが出来る、そんな一冊です。

  • 【近代文学】姫野カオルコ『昭和の犬』(幻冬舎)/川口則弘『直木賞物語』(バジリコ)/福山琢磨・植村鞆音ともね『直木三十五入門』(新風書房)片山 宏行

    第150回直木三十五賞を日本文学科卒業生の姫野カオルコさんが受賞しました。対象作は『昭和の犬』(幻冬舎、2013年9月)です。カバーの題字には犬の写真に添えて「Perspective kid」の副題があしらわれています。「遠近法の子」とは、この作品の主人公「柏木イク」という女性のこと。彼女の5歳から平成20年までのほぼ50年の半生を遠近法的に回想するというのがこの作品の構成です。半生記といっても、波乱万丈の物語ではなく、昭和30年頃の日本に生れて現在にいたる大方の女性・男性には、「自分もそう言えばそうだったな」と思えるような日常の場面、人と人との交錯が淡々と綴られている穏やかな記録です。そして、そこにはつねにさまざまな犬(ときどき猫)が登場し、主人公の心象をたくみに綾どり、しみじみとした感慨に読者を引き込みます。 姫野さんは今回の受賞まで4回も直木賞にノミネートされています(1997年『受難』、04年『ツ、イ、ラ、ク』、06年『ハルカ・エイティ』、10年『リアル・シンデレラ』)。いわば直木賞候補の常連で、すでに熱烈なファン層を持った実力派作家です。つねに読者の意表を突き、くり広げられる作品世界は多岐にわたり、その作風を一括してレッテル貼りするのはなかなか難しい。むしろその変幻自在さが姫野さんの魅力というべきでしょう。

    ただ、その多才さがかえって直木賞受賞を遅らせた、つまり姫野ワールドの多様さが、ある意味つかみどころのなさとして仇となっていたきらいがあったかと思うのです。その点、今回の審査員の選評(『オール読物』2014年3月臨時増刊号)を見ると、作者(視点人物)と世界との距離感=パースペクティブの巧みさを指摘する声が目立っていますが、この共通理解は、本作の魅力の核心をとらえたものであると同時に、選者たちの一種の<安心感>をも反映した賛辞ではないかと思われます。読者は作者のケレン味のない作行きに導かれつつ、なだらかに身をまかせて着地する――これは姫野さんの作品にはめずらしい平穏さに満ちた境地です。「品性」という言葉で本作を評した審査員が二人(浅田次郎・伊集院静)いましたが、これは多分にこの<安心感>に通底する感想といえるでしょう。ですからこれを裏返すと「圭角が失われ」「もっととげとげしくてよかったのではないか」(宮城谷昌光)という評言、つまりこれまでの挑発性をはらんだ姫野さん的世界への愛惜の言葉も出て来るわけです。

    さて、わたしはこれら審査員の見立て(調和的で親和性のある新たな境地の完成)は、たしかにその通りだと思います。しかし反面、どこかに「してやられたのでは……」という気持がくすぶっているのも事実です。というのも、主人公の「柏木イク」を、読者はいつのまにか作者の姫野カオルコさん自身に重ね合わせて読んではいないでしょうか。イクの生い立ちや年齢設定など基本的な部分は、カオルコさんのブログやエッセイ、その他ジャーナリズムに公表されている情報などと一致するようです。また、わたしのような同世代読者は、作中に書き込まれた折々の時代相、章立てに使われているTV番組のタイトルといった何気ない、しかし緻密に張りめぐらされたレトリックに巻き取られながら「自分はいい時代に生まれたと思う」というエンディングに導かれると、(そのとおりだなあ。これは50歳を区切りに人生を振り返った姫野さんならではの回想記なのだ)、と勝手に思い入れをしてしまうのです。 けれども、本作をそのように私小説的に了解するだけの根拠を、われわれは持っているでしょうか。姫野さんが直木賞を受賞したという一報を耳にしたとき、反射的にわたしが思い浮かべたのは、かつて彼女のブログで見た加藤茶のハゲおやじに扮したステテコ姿の姫野さんでした。姫野さんは素顔を出さない作家だということは、つい最近まで半ば伝説化していました。職業がらジャーナリズムでの露出はやむをえない、だがそれもあくまで仮りの姿で、素顔は極力見せない。自分もふくめて丸ごとフィクション――これが姫野さんの作家美学だとわたしは理解していました。だから『昭和の犬』も、今度は自叙伝的筆法で読者を手玉に取る新たなカードを完成したのではあるまいか、などと憶測したわけです。

    ところが、テレビのなかで記者会見に現れた姫野さんは、ジムから駆けつけたというジャージ姿=素顔でにこやかにフラッシュを浴びている。(やっぱり、姫野さんは吹っ切れていたのだ。『昭和の犬』は「姫野カオルコ半自叙伝」だったのだ)と思い直しました。 が、翌日「天晴れ日文!」の余韻にひたりながらパソコンを立ち上げると、一人の卒業生から届いていたメールに絶句しました。「先生、姫野さんやりましたね。ところであのジャージ気がつきました?NIKEですよ。ナイキ、直木ですよ」――。

    *直木賞と直木三十五についての参考書もあげておきました。あわせてお読みください。

  • 【近代文学】平野謙・小田切秀雄・山本謙吉 編集『現代日本文学論争史 上・中・下』(未来社)佐藤 泉

    三巻にわたるこの本には、大正末期の「宣言一つ」論争から戦争中の「国民文学」論争まで、全体で25項目の文学論争が取り上げられ、それぞれについて数人の文章が並んでいる。このわずかな期間に、これほどたくさんの論者たちをあつめて、当時の文学場はいったいなにを議論していたのだろうか。いくつか例をあげよう。菊池寛が口火を切った「内容的価値」論争は、小説において重要なのは文章の芸術性か、それとも話の内容そのものにそなわっている価値かが対立軸となっていた。あるいは、広津和郎の発言に始まる「散文芸術」論争は、韻文=詩、絵画、音楽など他の芸術諸ジャンルのなかで、散文芸術=小説の固有性は何であるかという問いを立てている。散文は他のジャンルとの比較においていうならもっとも実生活に近いジャンルであり、それゆえ芸術として「不純」であることこそ小説としては「純粋」なあり方ではなかろうか、と広津和郎は自論を展開した。その他「批評方法」をめぐる論争、「目的意識」論争、「芸術大衆化」論争、「政治的価値」と「芸術的価値」論争、「政治と文学」論争、「純粋小説」論争、「思想と実生活」論争、「文学非力説」論争などなど、である。

    「労働問題」や「労働運動」の担い手は、問題の当事者たる労働者でなければならない、それゆえ資産家の家に生まれついた自分がこれについて発言するわけにいかないと「宣言」した有島武郎、小説にとって「筋」の面白さは本質的な問題だろうかと問い、そしてまもなく自殺してしまう芥川龍之介、その芥川に反対し、筋立て、すなわち力強い構築性こそが小説の本質をなすのだと主張した谷崎潤一郎、さらにはモダニズムの横光利一やプロレタリア文学運動の中野重治、批評ジャンルで影響力を行使した小林秀雄らが続々と登場し、それぞれに論争のなかで自らの立場を明確にしていく。

    文学論争に介入したのは、狭い意味での文学者だけではない。河上肇や大杉栄らは、文学プロパーというよりも思想家あるいは社会運動家だが、彼らもまた文学の場での議論に本腰を入れて加わった。信じがたいほどに多彩な論争が、多様な発言者をひろく巻きこんで展開されていたのだ。この景観は、今現在の言説空間と大きく異なる。この時代、小説を読むことは個々人の趣味の問題ではなかった。文学について、文学をめぐる問題について議論することは、社会が何をもって「価値」と考えるのかを問うことを意味しており、「価値」に関しては多数多様な立場から議論される必要があるのだという共通認識がそこにはあった。三巻にわたる本書に登場する人々は、みな議論が好きで仕方ない人たち、いうなれば騒々しい人たちだったことは、それはどうやら間違いない。が、この時代が論争の時代となったのは当時の人々の個々の資質のせいだけではない。文学を語ることが同時に社会の動向を占うことであるという共通理解が人々の間に成立しており、だからこそ広範な議論の場が成立していた。このように大論争が頻繁におこる空間があったため、文学は公共の広場でありえた。

    だからこの三巻に関しては、ひととおり通読して感動する、という普通の読書法はあまり適切ではない。くわえて「読み方」というより、この場合は「使い方」といった方がふさわしい。私たちは、なにか作品と向き合うとき、意識するとしないとに関わらず、現代的な関心、「今・ここ」における問題意識をもっているはずだ。その関心を出発点に、「今・ここ」ならざるかつての論争を見つけ出し、異なる時空で、そして様々なポジションで思考していた人々と出会い、対話する身構えをもって読み、そして使うのが正しい用法だと思う。

    古い本である。刊行は1956年、だからわたしの手元にあるものはページが黄色い。が、半世紀後の2006年、同じ未来社からキレイに化粧直しした新刊が刊行された。おそらくこの時代を振り返ろうとする機運に促されたのだと思う。日本文学に関心をもつみなさんにも、ぜひどこかで手にとってみてほしい。日本文学科の合同研究室にもきれいな三巻がそろっている。

  • 【日本語学】三上章『象は鼻が長い』(くろしお出版)近藤 泰弘

    この本は、私が高校時代に将来は日本語の研究をしようかと思いたったきっかけになった2冊の書物のうちのひとつです。もう1冊は、金田一京助編『明解国語辞典』(現在の『新明解国語辞典』の前身)なのですが、それは辞書なのでまた別の機会にお話しするとして、ここでは、この『象は鼻が長い』について紹介してみます。

    『象は鼻が長い』は1960年に、くろしお出版から刊行されたもので、もう半世紀も前の書物ですが、まだその中で述べられていることは日本語研究の中で解明されていないことも多いのです。具体的にどんなことがかいてあるのか、ちょっと見てみましょう。

    日本語には、「象は鼻が長い」や「日本は温泉が多い」など、「○○は××が……」のように二重に主語があるように見える文が多くあります。また、主語だけでなく、「この本は、父が買ってくれました」の「この本は」のように「買う」という動詞の目的語が「は」で示されているように見える文もあります。三上章のこの本は、そのような複雑な性質を持つ「…は…が…」の文(後にこの本の題名にちなんで「象鼻文」とよく呼ばれるようになりました)の性質を、助詞「は」の「代行」の性質を使って明確に説明することでわかりやすく解説していくものです。

    助詞「は」の代行の性質とは、たとえば、「大根は葉を捨てます」(料理番組)の場合、この「は」は「大根の葉」の「の」の代わり(代行)であるという考え方です。これによって、「象は鼻が長い」も「象の鼻が長いこと」の意味であり、「この本は父が買ってくれた」も「この本を父が買ってくれた」の意味であるという、簡単な説明ができるようになるのです。そして、なぜ代行するのかといいうと、それは、文の《題目》を示すためであるというふうに話が進行し、日本語には主語がなく、《題目》を中核とした言語であるという著者の主張が展開されていきます。日本語の「は」の性格を初めて明確化した著書として、この本は現在の学界でも広く知られています。

    現在では三上の主張の、日本語には主語がないという部分については否定的な見解が多くなっていますが、この書で三上が提議した諸問題は、三上の説がそのまま受け入れられている部分が多く、日本語文法研究における「題目」の概念の研究書として第一に上げられるものです。

    また、三上の研究のすごさ、面白さは、その示している内容の広がりの大きさにあります。たとえば、代行の「は」が、先行の「は」になるとして、次のような例を挙げています。

    「虎はその姿を見せなかった」

    この文では、「その」の先行として「虎は」が存在しています。これと似た例としては「理事はその任期を二年とする」「彼は自分の腕がむずむずしてきた」 などが挙げられています。「代行」の「は」と、「先行」の「は」との相互関係はまた複雑な問題を秘めています他には、題目を示す語として「と来たら」「と言えば」「と来た日には」などが挙げられており、現在の最新の研究で、複合辞と呼ばれる一群の語彙を扱っていることにも驚きます。

    また、付録の増補部分にある「日英文法の比較」では、能格言語(主語と目的語のあり方が日本語や英語とは全く違う種類の言語。オーストラリア原住民言語などに存在する)の問題に触れられていますが、これなどはこの書が刊行されてから50年後の最近になってようやく学界の話題となってきたものであって、三上の視点が当時の学界から数十年先に及んでいたことが理解されます。

    天才的才能を持った学者の書いた書物は、自然科学の世界には多いでしょうが、言語学の世界にはあまりありません。この書は間違いなくその種類に属するものであって、若い世代の方々が、言語研究の奥深さを知るための書物としてふさわしいものだと思っています。

  • 【中世文学】佐竹昭広『民話の思想』佐伯 真一

    大学で日本の古典文学を研究するとはどういうことか、はっきりしたイメージを持っている高校生はそんなに多くはないでしょう。とはいえ、たとえば『源氏物語』の本文を研究するとか、『万葉集』の歌人について研究するとか、いくつかの具体例が浮かぶかもしれません。でも、文学研究というものは、実にいろいろなものを含んでいて、とても一口には言えません。ここでは、たぶん、あまり知られていない古典文学研究の一領域をご紹介してみましょう。

    この本は、狂言に出てくる「又九郎左衛門」という人物の名前から始まります。著者はそれを、「またし」(またい)、つまり、正直とかマジメとかいうような意味を含んだ名前ではなかったかと考えます。今なら、「マジ男」君とでもいう名前でしょうか。

    では、その名前にふさわしい人物は、どんな人なのか。著者はそのモデルを、昔話の世界に生きている正直じいさんに求めます。「舌切り雀」や「花咲かじじい」、「ネズミの浄土」(おむすびコロリン)といった、おなじみの昔話に出てくる、正直で心やさしい、あのおじいさんたちです。

    え?昔話が「古典文学」かって?いやいや、『宇治拾遺物語』や『沙石集』などの説話集や、あるいはお伽草子と呼ばれる作品群など、中世(鎌倉~室町時代)の文学には、今では「昔話」とか「民話」「童話」として知られている物語が、たくさん見られます(もちろん、他の時代にも見られますが)。お伽草子の中には、「屁ひりじじい」という珍妙な話型に基づいた『福富長者物語』なんてのもあって、本書の中で重要な位置を占めています。

    さて、その正直じいさんたちは、いい人だったおかげで、隣の意地悪じいさんや強欲なばあさんと違って、幸運に恵まれ、宝物をもらったりして、幸せに暮らすことができます。それはなぜでしょうか?「善い人には善い報いがある」という考え方は、「因果応報」ということばで表すことができますが、これは仏教のことばです。仏教は、古くから日本に伝わりましたが、本来の日本人の思想ではありません。昔話のような庶民の物語が、もともと仏教の教えによって作られたわけではないと、著者は考えます。では、そんな物語を支えていたのは、どのような考え方だったのでしょうか。

    天才が考え出した難しい思索を追究するのも、もちろん文学研究ですが、こんな風に、名も知れない無数の普通の人々が考え、語り継いだ物語を、いろいろな角度から考えてみるのも、文学研究の一つのあり方です。そうした研究は、現在の私たちが何となく身につけている考え方の根本を、照らし出してくれるかもしれません。古典文学の研究が現在につながるというのは、たとえばそんなことであるわけです。

    著者の佐竹昭広(1927~2008)は、『万葉集』の難しいことばに関する研究をものするかと思えば、こういう昔話や庶民的な作品についても鮮やかに分析してみせるという、雄大で自在な研究者でした(現在、『佐竹昭広集』が刊行されています)。『万葉集』の研究にも民話の研究にも貫かれているのは、一つのことばを広い視野から徹底的に調べ、その意味を生き生きと浮かび上がらせる方法です。そのみごとな手際は、文学研究の一つのお手本といえるでしょう。是非一読して、なるほど、こういうのも文学研究か、と理解してください。

    *『民話の思想』(平凡社)。『佐竹昭広集』(岩波書店)では第三巻『民話の基層』所収。

  • 【近代文学】菊池寛『半自叙伝/無名作家の日記』片山 宏行

    菊池寛という作家をご存知ですか?

    芥川賞や直木賞は知っていますね。現在、約600もあるといわれている文学賞の最高峰といってもいいかもしれません。これを創設したのが菊池寛です。芥川龍之介は彼の親友でした。『新思潮』という同人雑誌でいっしょに文学活動を始めましたが、文壇に出るのは芥川の方が早かった。「鼻」という短篇小説が夏目漱石に激賞されたからです。

    文学青年たちにとって夏目漱石は神様のような存在でしたから、漱石先生に評価されたということはとても名誉なことだったし、プロの作家としてやっていけると太鼓判を押されたようなものです。芥川は一躍脚光を浴びて華々しい作家デビューを飾り、また存分に健筆をふるって文壇の寵児、いわばアイドルと目されるようになるんですね。

    一方、菊池寛はというと、漱石からの評価も得られず、新聞記者として生活を支えながら地道に創作を続けますが鳴かず飛ばず、もう作家になる夢は捨てようと思い込むところまで追い詰められます。芥川と自分の差は明らかでしたからね。

    そんな菊池に最後のチャンスが訪れます。一流雑誌『中央公論』からの原稿依頼です。ここに載せた作品で成功すれば、作家としての地位が約束されるとまで言われていました。「無名作家の日記」という短篇小説を菊池は書き送りました。が、この原稿を読んだ編集長は菊池にこう尋ねました。「芥川さんに悪くはないですか……」

    この「無名作家の日記」に書かれていたのは、天才芥川龍之介の華やかな登場の陰で、文学への夢を捨ててしまおうとする無名作家菊池寛の焦燥と絶望、芥川への醜いまでにあからさまな嫉妬と呪詛でした。芥川は徹底的に冷徹で底意地の悪い嫌なやつとして描かれています。もちろん登場人物は実名ではありません。が、当時の読者なら、これは今を時めく芥川のことだとすぐ分かるように書かれています。結果、いわば時の文壇的アイドルの素性を曝露した作品として、この「無名作家の日記」はセンセーショナルな興味を呼び、批評家の注目を得ることに成功します。これを転機に菊池寛は芥川と肩を並べる<有名作家>への道を歩むことになります。

    さて、この一件で芥川と菊池の友情は壊れたのでしょうか?後年、芥川賞を創設した菊池寛を思うと、決してそうではなかったと、私は思いたいのですが……。みなさんはどう思われますか。ぜひ一度お読みになってください。

    *『半自叙伝/無名作家の日記』(岩波文庫) 660円

  • 【漢文学】河上肇『自叙伝』・中野重治『歌のわかれ』大上 正美(名誉教授)

    入学試験会場から東京駅へ直行し、帰りの“特急はと”を待つ間、日本橋の丸善を捜した春先は、その十月に新幹線が開通する年でした。ホントウの本を読まずにはいられない、やみくもな渇望から買い求めたのは河上肇『自叙伝・一』(岩波新書。現在は岩波文庫に収録)でした。何の先入観もなしにたまたま手にしたのでしたが、新しい生活をはじめるにあたって、生身の生涯に関心が向かったのでしょう。難しい時代を複雑に生きた、その内面に一貫する求道精神について語られた箇所を、当時の私はノートに抜き出しています。

    「苟も自分の眼前に真理だとして現われ来ったものは、それが如何ようのものであろうとも更に躊躇することなく、いつでも直ちに之を受け入れ、そして既に之を受け入れた以上、あくまで之に食い下がり、合点のゆくまで次から次へと掘り下げながら、依然としてそれが真理であると思われている限りにおいては、敢て身命を顧慮せず、毀誉褒貶を無視し、出来うる限り謙虚な心をもって、無条件的に且つ徹底的に、どこどこまでもただ一途にそれに服従し追従していき、(中略)しかし、こうした心持で夢中になって進んでいくうちに、最初真理であると思って取組んだ相手がそうでなかったことを見極めるに至るや否や、その瞬間、一切の行き掛かりに拘泥することなく、断固として直ちに之を振り棄てる。これが私の本質である。」

    <大学なるもの>の私のイメージはこのような執拗な一文とともに刻まれました。そうして次には中野重治『歌のわかれ』(『村の家・おじさんの話・歌のわかれ』講談社文芸文庫)を読み、それまでの自分とやらに染みついていた考えや感性と別れるためにも、自分とは遠かった中国古典文学との格闘を、やがては自覚して行くことになります。新しい自分に向けて古典があったというのは、必ずしも逆説ではありませんでした。

    *河上肇(1879-1946) 経済学者。
    *中野重治(1902-1979) 小説家・詩人

  • 【平安文学】西郷信綱『古典の影』高田 祐彦

    みなさんは、「古典」ということばにどんなイメージを抱くでしょうか。

    おそらく多くの人が、何か漠然とした価値があることは承知しつつ、しかし、古めかしくてつき合いにくいもの、また何か重圧感を感じるものとして受けとめているのではないでしょうか。若いみなさんのそうした感覚は、よくわかります。

    しかし、未来に向かって生きている私たちに、「古いもの」である古典がなぜ価値を持つのか、不思議だと思いませんか。古典が常識として収まってしまわずに、読みつづけられてきているということ。それは、古典は「古くならない」からなのです。時代が移り変わっても古くならないとは、どういうことでしょうか。

    この本の著者に答えてもらいましょう。

    古典が偉大なのは、たんにそこでいわれていることじたいによってではなく、そこでいわれようとしていること、すなわちそれが私たちに投げかけている志向性の影によってである。
    「志向性」とは、簡単に言うと、どのような方向に向いているかということです。ここで著者が言いたいことは、古典は、すでに書かれてしまった結果としてだけ読まれるものではなく、書かれたことの中に秘められている可能性も読めるものだということ、その豊かな可能性があるからこそ、古典は古典として読まれつづけてきた、ということです。

    この本は、そうした古典の持つ魅力と、それを学問として扱うことのむずかしさとおもしろさとを存分に語ってくれます。

    古典を大切にしたい人はもちろん、古典がどのような意味を持つのかじっくり考えたい人や、古典の学問とはどのようなものか知りたい人に、ぜひとも読んでほしい一冊です。

    * 西郷信綱(さいごう・のぶつな)(1916- ) 古典学者。
     『古事記研究』『詩の発生』『古代人と夢』など、著書多数。