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フランス文学科をもっと知る(フランス文学科)

CONTRACT RESEARCH OFFICE 合同研究室

青山キャンパス

15号館11階 月〜金 9:00〜17:00
閉室日:土・日・祝日

  • *11:30〜12:30の間は昼休みのため事務の取扱は行いません。
  • 合同研究室には書庫と閲覧室が併設されており、辞書・資料等の閲覧ができます。 (図書の貸し出しは4週間以内、3冊まで。本学学生に限ります)

AOYAMA SOCIETY OF FRENCH LITERATURE 青山フランス文学会

フランス文学の研究と親睦を深める

青山フランス文学会は、学部学生、大学院生、教員および卒業生有志からなる組織であり、研究と会員相互の親睦を目的に、毎年各界で活躍する卒業生や内外の著名な研究者の講演、セミナー、映画の上演など、多彩な催しを主催しています。

論集・会報

1992年には学科創設30周年を機に年1回発行の研究誌『青山フランス文学論集』を復刊、活動報告と情報提供のための「会報」も毎年発行されています。

LECTURES AND SYMPOSIUMS 講演会・シンポジウム

講演、セミナー、映画、舞台上演などの多彩な催し

フランス文学科では、単独で、あるいは青山学院大学フランス文学会との共催で、シンポジウムや学会、海外から招聘した研究者や作家によるセミナーや講演、また卒業生による講演などを催しています。過去には、映画監督のジャン=ジャック・ベネックス、小説家のピエール・ギヨタなども来校し、一般人も含めた聴衆と交流を深めました。

2006年度には、モリエールを中心とする17世紀演劇に関する理論および実践の両面で世界的に注目を集めるバンジャマン・ラザールを迎え、講演と舞台上演が催されました。研究者、俳優、演出家という3つの顔をもつラザール氏は「17世紀におけるフランス人俳優の演技術について」と題するきわめて刺激的な講演をおこない、17世紀の詩や戯曲からの抜粋をコラージュした独創的な舞台作品「いかにも、私は夢見ている」を上演しました。写真はラザール氏本人と女優ルイーズ・モアティの両氏によって演じられた舞台の模様です。

« Chacun son Barthes » 「それぞれのバルト」青山学院大学文学部フランス文学科シンポジウム

2019年12月14日(土)
青山キャンパス14号館14509教室
日本語通訳なし、予約不要

第一部 13時30分〜15時30分
司会 阿部崇
木村文子「エクリチュールのアンガージュマンは可能か?」
滝沢明子「バルトはいつから、どのように写真に興味を抱いたのか?」
村石麻子「バルトとデュラス̶写真とエクリチュールをめぐって」

第二部 16時〜18時
司会 マリオン・ド・ランクザン
エルヴェ・クーショ「ロラン・バルトの様々な暴力」
ラウル・ドゥルマジュール「ロラン・バルトの〈獣的な=愚かな〉形而上学」
ファビアン・アリベール=ナルス「間メディア的バルト̶シニフィアンの帝国」

主催:青山学院大学文学部フランス文学科
青山学院大学文学部フランス文学会
問合せ先:フランス文学科合同研究室(03-3409-7914)

クリスチャン・ブラン講演会 パスカルにおける断章と〈短さ〉の美学

2019年10月29日(火) 18時
青山キャンパス 11号館1120教室
日本語通訳なし、予約不要

主催:青山学院大学文学部フランス文学科
青山学院大学文学部フランス文学会
問合せ先:フランス文学科合同研究室(03-3409-7914)

講演者
Christian Belin(クリスチャン・ブラン)
モンペリエ第3大学教授
17世紀フランス文学研究

「ショーメ:1780年からの宝飾芸術の世界」 ギヨーム・ロビック氏、カリーヌ・ウグノー氏による講演

2018年6月28日(木)15:30-17:00
青山キャンパス 4号館420教室
フランス語による講演(通訳あり)
参加無料(ただし、席に限りがありますのでお早めにお越しください)

主催:青山学院大学文学部フランス文学科、青山学院大学フランス文学会
協賛:ショーメ

本講演会では、ショーメの1780年のメゾン創設時からの歩みとフランス、ヨーロッパの歴史との関係性について講演いたします。メゾンが大きく影響を受けたテーマや時代を超えて受け継がれてきた芸術的な流れの再解釈、外国文化や文明の影響、職人の技術など、ショーメのスタイルを形づくってきた重要な要素に触れる機会となります。著名な美術館で世界最高峰のコレクションと評されるショーメの作品の秘密に迫ります。


講演者
Guillaume Robic (ギヨーム・ロビック)
ショーメ 遺産コレクション部門ディレクター
ルーブル美術館大学卒業。パリのポンピドゥー・センターおよびグラン・パレ美術館の企業メセナ責任者として活躍したのち、パリ造幣局のコミュニケーション・ディレクターを務め、2017年からメゾン・ショーメの遺産コレクション部門のディレクターに就任。

Karine Huguenaud (カリーヌ・ウグノー)
ショーメ 遺産コレクション部門キュレーター
美術史家、19〜20世紀のヨーロッパ美術の専門家。パリのナポレオン財団のキュレーターとして15年以上活躍。フランス国内外の数々の展示会を企画し、ナポレオンや19世紀美術に関する記事、著書を数多く執筆している。2014年からはメゾン・ショーメの遺産コレクション部門に就任。

国際シンポジウム 「短文はジャンルになるのか?」

当シンポジウムのプロシーディングスが出来ました。
下のリンクからダウンロードしてお読み下さい。

2017年3月29日(水)30日(木)
青山キャンパス 14号館11階19会議室
青山学院大学フランス文学科・青山フランス文学会共催

3月29日(水)
9:30 開場・受付
9:55 開会の挨拶
10:00〜12:30 セッション 1「短文のシンタクスと発話」
14:00〜15:55 セッション 2「短文の語用論」
16:15〜17:45 セッション 3「短文と落ちの技と芸」

3月30日(木)
9:30 開場・受付
10:00〜12:00 セッション 4「感情的対応としての短文」
13:30〜15:25 セッション 5「短文ジャンルの可能性」
15:40〜17:00 パネル・ディスカッション「短文はジャンルになるのか?」

ドミニク・シャトー氏講演会 「文学と映画のあいだ」

2016年12月3日(土)15:30
青山キャンパス 17号館
17308教室

ドミニク・シャトー
パリ第1大学名誉教授(美学・芸術論)
文学、哲学と映画の関係を論じた主な著書に『アラン・ロブ=グリエの映画作品』『言語としての映画』『映画の哲学』

国際シンポジウム 「〈日常〉とは何か 西欧の場合、日本の場合」

2015年12月5日(土)6日(日)
青山キャンパス 17号館6階
本多記念国際会議場
入場無料

12月5日(土)
9:55 開会スピーチ
10:00〜11:00 セッション 1「映画における日常」
11:15〜12:15 セッション 2「写真と日常」
13:30〜15:00 セッション 3「日常とその理論的把握の試み」
15:20〜16:20 セッション 4「日常と生の様式」
16:40〜17:25 セッション 5「日常の色彩」
17:35〜18:20 セッション 6「消費社会の日常」

12月6日(日)
10:00〜11:00 セッション 7「日本の古代・中世における〈日常〉」
11:15〜11:45 セッション 8「フランス・ルネサンスと日常」
12:00〜13:00 セッション 9「18世紀から19世紀初頭における日常」
14:20〜15:20 セッション 10「19世紀後半から20世紀前半における日常」
15:35〜16:35 セッション 11「戦後日本文学における日常」
16:50〜18:20 セッション 12「日常の裂け目」
18:20 閉会スピーチ

(各セッションの詳しい内容は「発言要旨集」をご覧ください)

  • プログラム詳細を見る

    青山学院大学文学部フランス文学科・青山フランス文学会共催
    国際シンポジウム

    〈日常〉とは何か西欧の場合、日本の場合
    2015年 12月 5日(土) / 6日(日)

    於 青山学院大学
    青山キャンパス17号館6階本多記念国際会議場

    助成 日本学術振興会
    後援 フランス大使館・アンスティチュ・フランセ日本

    参加無料
    (原則として、日本語の発表は仏語に、仏語・英語の発表は日本語に同時通訳されます)


    12月5日(土)
    9h55 開会の辞
    井田尚 (青山学院大学)


    10h00 – 11h00: セッション 1
    映画における日常
    司会 : 濱野 耕一郎

    L’automatisme chez Bresson et Ozu
    「ブレッソンと小津における自動性」
    三浦哲哉 (青山学院大学)
    (日本語)

    スタンリー・カヴェルの映画論における自動性と日常 — フレッド・アステアからシャンタル・アケルマンへ
    エリーズ・ドムナック (リヨン高等師範学校、フランス)
    (仏語)



    11h15 – 12h15: セッション 2
    写真と日常
    司会 : 塚本 昌則

    三脚、自撮り棒、ドローン — カメラの支持体の歴史
    橋本 一径 (早稲田大学)
    (日本語)

    素人写真家と日常のアーカイヴ 1970年、パリ
    キャサリン・クラーク(マサチューセッツ工科大学、アメリカ)
    (仏語)



    13h30 – 15h00: セッション 3
    日常とその理論的把握の試み
    司会 : 桑田 光平

    バルトとオブジェ 日常的なものの唯物論に向けて
    パトリック・フレンチ (キングス・カレッジ・ロンドン、イギリス)
    (仏語)

    〈日常 le quotidien〉も〈凡庸 le banal〉も超えて:生の美学としての〈ありきたり l’ordinaire〉
    バルバラ・フォルミス (パリ第1大学、フランス)
    (仏語)



    15h20 – 16h20: セッション 4
    日常と生の様式
    司会: 秋山 伸子

    食をめぐる日仏の日常と非日常
    国末憲人 (朝日新聞)
    (日本語)

    アトラクション〉としての日常 ── テクノロジーと身体の遊戯
    長谷川一 (明治学院大学)
    (日本語)



    16h40 – 17h25: セッション 5
    日常の色彩
    司会: 塚本 昌則

    日常の色 — 牛腸茂雄の写真を通して
    田中 純 (東京大学)
    (日本語)



    17h35 – 18h20 : セッション 6
    消費社会の日常
    司会 : パトリック・フレンチ

    ライフスタイル、嗜好形成と日常生活批判
    ベン・ハイモア (サセックス大学、イギリス)
    (英語)




    12月6日(日)
    10h00 – 11h00 セッション 7
    日本の古代・中世における〈日常〉
    司会 : 井田 尚

    紫式部はどのように〈日常〉を綴ったか
    田村 隆 (東京大学)
    (日本語)

    16世紀日本における風俗画の成立 —『酒飯論絵巻』をめぐって—
    並木 誠士 (京都工芸繊維大学)
    (日本語)



    11h15 – 11h45 セッション 8
    フランス・ルネサンスと日常
    司会 : 塩塚 秀一郎

    モンテーニュの『エセー』あるいは日常を書くこと
    久保田 剛史 (青山学院大学)
    (日本語)



    12h00 – 13h00 セッション 9
    18世紀から19世紀初頭における日常
    司会 : 桑田 光平

    啓蒙期の作家における日常 — ディドロの場合
    井田 尚 (青山学院大学)
    (日本語)

    曲亭馬琴の〈日常〉
    大屋 多詠子 (青山学院大学)
    (日本語)



    14h20 – 15h20 セッション 10
    19世紀後半から20世紀前半における日常
    司会 : 久保田 剛史

    明治時代の小説における日常性
    ニコラ・モラール (日仏会館)
    (仏語)

    永遠性から日常性へ? — ブルトンとルフェーヴルの思想が交わる場
    平田 周 (日本学術振興会・獨協大学)
    (仏語)



    15h35 – 16h35 セッション 11
    戦後日本文学における日常
    司会 : 三浦哲哉

    〈くらし〉のリトルネロ:日本戦後詩に関するいくつかの考察
    桑田 光平 (東京大学)
    (日本語)

    三島由紀夫と非人間の詩学
    塚本 昌則 (東京大学)
    (日本語)



    16h50 – 18h20 セッション 12
    日常の裂け目
    司会 : ファビアン・アリベール=ナルス

    日常と暴力:フランス現代文学における都市風景への視線
    塩塚 秀一郎 (京都大学)
    (仏語)

    日常の恐怖 極限状況におけるトラウマと順化
    ブルース・ベグ (ボルドー大学, フランス)
    (仏語)

    18h20 閉会の辞
    ファビアン・アリベール=ナルス (青山学院大学)

  • Voir le programme

    ORGANISÉ PAR LE DÉPARTEMENT DE FRANÇAIS
    ET L’ASSOCIATION DES ÉTUDES FRANÇAISES DE L’UNIVERSITÉ AOYAMA GAKUIN

    Avec le soutien de la Japan Society for the Promotion of Science,
    et le concours de l’Institut français et de l’Ambassade de France au Japon

    Campus d’Aoyama; Bât. 17, 6e étage, Honda Memorial Hall
    Admission libre
    En français et japonais, avec traduction simultanée



    SAMEDI 5 DÉCEMBRE
    9h55 Allocution d’ouverture du colloque
    Hisashi IDA (Université Aoyama Gakuin)


    10h00 – 11h00: Session 1
    Le quotidien au cinéma
    modérateur : Koichiro Hamano

    L’automatisme chez Bresson et Ozu
    En japonais, avec traduction simultanée en français
    Tetsuya MIURA (Université Aoyama Gakuin)

    L’automatisme et le quotidien dans la pensée du cinéma de Stanley Cavell : de Fred Astaire à Chantal Akerman
    Élise DOMENACH (École Normale Supérieure de Lyon)
    En français, avec traduction simultanée en japonais



    11h15 – 12h15: Session 2
    Photographie et quotidien
    modérateur : Masanori Tsukamoto

    Le trépied, la perche à selfie, le drone : une histoire des supports de l’appareil photographique
    Kazumichi HASHIMOTO (Université Waseda, Tokyo)
    En japonais, avec traduction simultanée en français

    Le photographe amateur et les archives du quotidien: Paris, 1970
    Catherine CLARK (Massachusetts Institute of Technology, États-Unis)
    En français, avec traduction simultanée en japonais



    13h30 – 15h00: Session 3
    Approches théoriques du quotidien
    modérateur : Kohei Kuwada

    Barthes et l’objet: vers un matérialisme du quotidien
    Patrick FFRENCH (King’s College London, Royaume-Uni)
    En français, avec traduction simultanée en japonais

    Au-delà du quotidien et du banal : l’ordinaire comme esthétique de la vie
    Barbara FORMIS (Université Paris 1-Panthéon Sorbonne)
    En français, avec traduction simultanée en japonais



    15h20 – 16h20: Session 4
    Quotidien et modes de vie
    modératrice: Nobuko Akiyama

    Le quotidien et le “non quotidien” gastronomique, en France et au Japon
    Norito KUNISUE (Journal Asahi Shinbun)
    En japonais, avec traduction simultanée en français et en anglais

    Le quotidien comme attraction : interaction entre corps et technologie
    Hajime HASEGAWA (Université Meiji Gakuin, Tokyo)
    En japonais, avec traduction simultanée en français et en anglais



    16h40 – 17h25: Session 5
    Les couleurs du quotidien
    modérateur: Masanori Tsukamoto)

    Les couleurs du quotidien selon le photographe Shigeo Gochô
    Jun TANAKA (Université de Tokyo)
    En japonais, avec traduction simultanée en français et en anglais



    17h35 – 18h20 : Session 6
    Critique de la vie quotidienne
    modérateur : Patrick french)

    Lifestyle, Taste, and the Critique of Everyday Life
    Ben HIGHMORE (Université du Sussex, Royaume-Uni)
    En anglais, avec traduction simultanée en japonais




    DIMANCHE 6 DÉCEMBRE
    10h00 – 11h00 Session 7
    Culture et quotidien au Japon de l’ère Heian (11e siècle) à l’ère Muromachi (16e siècle)
    modérateur : Hisashi Ida

    L’écriture du quotidien chez Murasaki Shikibu
    Takashi TAMURA (Université de Tokyo)
    En japonais, avec traduction simultanée en français

    La naissance de la peinture de genre au 16e siècle au Japon: à propos du Rouleau sur les mérites comparés du saké et du riz
    Seishi NAMIKI (Université des arts et techniques de Kyoto)
    En japonais, avec traduction simultanée en français



    11h15 – 11h45 Session 8
    Écrire le quotidien sous la Renaissance
    modérateur : Shuichiro Shiotsuka

    Les Essais de Montaigne ou l’écriture du quotidien
    Takeshi KUBOTA (Université Aoyama Gakuin)
    En japonais, avec traduction simultanée en français



    12h00 – 13h00 Session 9
    Le quotidien dans les lettres françaises et japonaises au 18e et début du 19e siècle
    modérateur : Kohei Kuwada

    Le quotidien chez les écrivains des Lumières – le cas de Diderot
    Hisashi IDA (Université Aoyama Gakuin)
    En japonais, avec traduction simultanée en français

    Les représentations du quotidien chez Kyokutei Bakin
    Taeko OYA (Université Aoyama Gakuin)
    En japonais, avec traduction simultanée en français



    14h20 – 15h20 Session 10
    Approches du quotidien en France et au Japon à la fin du 19e et au début du 20e siècle
    modérateur : Takeshi Kubota

    Le quotidien dans les romans de l’époque Meiji
    Nicolas MOLLARD (Maison franco-japonaise, Tokyo)
    En français, avec traduction simultanée en japonais

    De l’éternel au quotidien ? Au carrefour des idées d’André Breton et Henri Lefebvre
    Shu HIRATA (JSPS ; Université Dokkyo)
    En français, avec traduction simultanée en japonais



    15h35 – 16h35 Session 11
    La question du quotidien dans la littérature japonaise d’après-guerre
    modérateur : Tetsuya Miura

    Ritournelles de la vie ordinaire: quelques remarques sur la poésie japonaise d’après-guerre
    Kohei KUWADA (Université de Tokyo)
    En japonais, avec traduction simultanée en français

    Mishima et la poétique de l’inhumain
    Masanori TSUKAMOTO (Université de Tokyo)
    En japonais, avec traduction simultanée en français



    16h50 – 18h20 Session 12
    Violence et ébranlement du quotidien
    modérateur : Fabien Arribert-Narce

    Le quotidien et la violence: regards sur le paysage urbain chez quelques écrivains français contemporains
    Shuichiro SHIOTSUKA (Université de Kyoto)
    En français, avec traduction simultanée en japonais

    L’horreur quotidienne. Trauma et habituation dans les situations extrêmes
    Bruce BÉGOUT (Université de Bordeaux)
    En français, avec traduction simultanée en japonais

  • 発言要旨集

    12月5日(土)
    ▼セッション1「映画における日常」
    三浦哲哉 (青山学院大学)
    「ブレッソンと小津における自動性」 (日本語)
    小津のとりわけ後期作品に共通する問いは、日常的な生(家族的共同体)を再生産するために、いかにして「別れ」と「死」を受け入れることができるか、であると言うことができる。しかし、その「受け入れ」はつねに合理的判断を超えており、物語展開に心理を超えた飛躍を要請する。従来、このプロセスは、「もののあはれ」といった伝統的観念によって説明されてきた。本発表では、ブレッソンを参照しつつ、「自動性」概念からこれを再解釈する。

    エリーズ・ドムナック (リヨン高等師範学校, フランス)
    「スタンリー・カヴェルの映画論における自動性と日常 — フレッド・アステアからシャンタル・アケルマンへ」 (仏語)
    われわれが出発点とするのは、スタンリー・カヴェルのテクストにおける分析である。かれのテクストは、映画というメディウムが、〈日常〉(われわれの通常の生活でくりかえしあらわれるもの)の表現に存在論的にむすびついていること、それから、この存在論的なつながりが、カヴェルによる「自動性」の概念の探求(かれはこの探求を、1971年の『眼に映る世界』のなかで、映画のメディウムのモダニズムについて考えながらおこなっている)に、なにを負っているかもしめしている。われわれはまず、この分析が、いかにしてその後(2005年の『明後日の哲学』)、フレッド・アステアがコメディー『バンドワゴン』(ミネリ、1953年)のなかでおこなったさまざまな〈ルーティン〉の探求を、研究の特権的な対象とすることになったのかを明らかにしたい。われわれが提起する問題は、なにがこのルーティンを〈うまい〉ものとしているのか、すなわち、なにがそれを「通常の生活をぴったりと表現するもの」(カヴェル)としているのかにかかわる。さらに、いかにして映画が、それとは反対の可能性、惨劇にいたるような〈災厄のルーティン〉の可能性を表現するものとなりうるかにも関係する。つづいてわれわれは、通常あるいは日常におけるさまざまな災厄を映画でどう表現するかについて考えるべく、うえのような理論的な形態をあらためて使用するための基盤を築きたいと思う。そのさい、シャンタル・アケルマンの短編映画、『街をぶっとばせ』(1968年)を(先ごろ亡くなったこの偉大な監督へのオマージュもかねて)考察の対象とする。

    ▼セッション2 「写真と日常」
    橋本 一径 (早稲田大学)
    「三脚、自撮り棒、ドローン--カメラの支持体の歴史」 (日本語)
    
カメラの歴史は詳細に語られている一方で、カメラを地面に支えるもの、つまり三脚の歴史については、ほとんどのことが知られていない。三脚はカメラにとって、常に消し去りたい存在であったことが、その原因の一つである。カメラが日常生活に入り込むためには、望遠鏡や機関銃の歴史と結びついた、この三脚から解放される必要があったのだ。だがコンパクトカメラの登場は、それまでの写真と異なるイメージを生み出すことになったのだろうか。本発表は、手持ちカメラの写し出すイメージが、言わば三脚の亡霊を抱え続けてきたことを明らかにするとともに、自撮り棒やドローンが、これまでとは異なるイメージを生み出す可能性について検証する。

    キャサリン・クラーク (マサチューセッツ工科大学, アメリカ)
    「素人写真家と日常のアーカイヴ 1970年、パリ」 (仏語)
    Fnacは1970年、フランス放送協会、パリ県知事、警察知事と地方参事会の後援を受け、アマチュア写真家コンクール「これが1970年のパリだった」を開催した。そこで展示された写真が露わにする、日常的なものについてのさまざまな観点を浮き彫りにするのが本発表の目的である。このコンクールには15,000人以上が参加し、当時のパリを忘却から救おうとした。かれらは街の隅々を写真に収めることで、首都全体を網羅するアーカイヴを構築しようとしたのである。現在パリ市歴史図書館に保管されている100,000もの写真は、急速に変わりつつある都市と————パリ住民の日常生活のアーカイヴとなっている。

    ▼セッション3「日常とその理論的把握の試み」
    パトリック・フレンチ (キングス・カレッジ・ロンドン, 英国)
    「バルトとオブジェ 日常的なものの唯物論に向けて」 (仏語)
    第二次世界大戦後、とりわけアンリ・ルフェーブルの仕事を通過することで発展した「日常生活批判」と、「平板な存在論」(ガルシア)や「オブジェたちの民主主義」(ブライアント)、ないし「生物体」(ベネット)や「あれそれ」(ボスカグリ)の肯定へと向かう現代の哲学的・理論的方向性のあいだにはいかなる関係があるのだろうか?日常生活批判とは、日常生活の唯物論へと向かう全般的な戦術の一部をなしているのだろうか?これらの問いに答えるにあたって、わたしはまず、ロラン・バルトの仕事におけるオブジェへのさまざまなアプローチを検討したい。

    バルバラ・フォルミス (パリ第1大学, フランス)
    「「日常 le quotidien」も「凡庸 le banal」も超えて : 生の美学としての「ありきたり l’ordinaire」」(仏語)
    「ありきたりのものl’ordinaire」とは、「日常的なquotidien」ものでもなければ(というのも、ありきたりなものはより拡張した時間のなかで展開するから)、「凡庸なbanal」ものでもない(というのも、ありきたりなものは過去や既知のものに貼り付いていないから)。ありきたりなものとは、生の美学的な形式なのである。美学が芸術を概念生産の特権的な座とみなしているのは、芸術が感覚的なもののただなかで機能しているからであり、この感覚的なものとは何よりもまず非人称的で間主観的なものなのである。とりわけ「生身の人間による芸術l’art vivant」の実践(特にダンス、パフォーマンスや演劇)は、複数の主体のあいだの複合的な体験のさなかに作品を位置付けるため、芸術作品をひとつのオブジェに同定する古典的な操作を越え出てしまう。かくして美学は、一作品に固有の美学的体験の意味をありきたりな体験の意味へと結びつける、身体の真の哲学となる。哲学はそのことによって芸術的実践のなかに根を下ろすことになり、ありきたりな生の創造性に言及する美学の構築が試みられることになる。

    ▼セッション4「日常と生の様式」
    国末憲人 (朝日新聞)
    「食をめぐる日仏の日常と非日常」 (日本語)
    フランスで100年以上の歴史を持つレストランの格付けガイド「ミシュラン・ガイド」の東京版が2007年に発行された際、日本では激しいバッシングがわき起こった。「日本の味覚はフランス人にわからない」「ラーメン屋が入っていないじゃないか」「フランス料理への評価が甘すぎる」等々の批判がメディアにあふれた。こうなった背景には、外食を日常の生活に組み込んできた日本と、非日常的な場として受け止めてきたフランスとの、意識の差がある。両国の「外食」「レストラン」の変遷を通じて、食の日常感の違いを考えたい。

    長谷川一(明治学院大学文)
    「〈アトラクション〉としての日常──テクノロジーと身体の遊戯」 (日本語)
    本発表では、日常の今日的様相を捉える新しい視座として〈アトラクション〉という概念を提案する。〈アトラクション〉とは、ちょうど東京ディズニーランドの遊戯機械に典型的に見られるような、テクノロジーと身体とが同期して織りなす協調的な運動系のことだ。それは一種の参加体験型の学習機構であり、状況に巻きこむことで人びとから外部への想像力を奪う、より洗練された支配を可能にする。同時に〈アトラクション〉は、みずからを内から相対化する契機をも孕むという点で、両義性を帯びている。こうした観点から、日常の諸実践を遊戯的な場として把捉・探索する可能性を示す。

    ▼セッション 5「日常の色彩」
    田中純 (東京大学)
    「日常の色──牛腸茂雄の写真を通して」 (日本語)
    牛腸茂雄(1946-1983)はいわゆる「コンポラ写真」を代表する写真家のひとりとして知られている。本発表では生前最後の写真集『見慣れた街の中で』を中心に、牛腸がその序文で「日常という不透明な渦の中で増殖しつづける生き物」と呼んだ「人間存在の不可解な影」をめぐり、写真における色彩の心理的・情動的作用を通して考えてみたい。ロールシャッハ・テストに似たインクブロット画集『扉をあけると』などの作品も取り上げる予定である。

    ▼セッション6「消費社会の日常」
    ベン・ハイモア (サセックス大学, 英国)
    「ライフスタイル、嗜好形成と日常生活批判」(英語)
    アンリ・ルフェーブルの広範にわたる日常生活批判は、その対象(現代世界における日常生活)を一貫して、歴史的・弁証法的諸力の所産として位置づけている。そのことを最もはっきり示すのが、消費者ベースのライフスタイル文化に関する分析であり、ルフェーブルはこの文化を、古くからある、より有機的な生活スタイルの資本主義的再配置と読み解くのである。ルフェーブルにとって新しいライフスタイル文化は、日常生活内部におけるわれわれの疎外が大規模化していることを露わにすると同時に、現代生活批判を差し迫った課題として指し示すものであった。
     歴史的・弁証法的アプローチの複雑な絡み合いは、歴史的な事例の解読に適用されるときさらに明らかになる。1964年に開業した英国のライフスタイル店Habitatは、地中海地方の食材や飾らない人付き合い、日本風のインテリア美学などに想を得たライフスタイルを提供する趣味形成の場として機能した。Habitatは現代的なインテリア・デザインを民主化することを望んだが、結局のところ日常生活の不均衡を悪化させてしまった。それは都市のジェントリフィケーションに新たな装いを供給すると同時に、中産階級の急進主義に空間演出術を提供することになった。本発表の目的は、Habitatを対象にしたケース・スタディーによって、消費文化の経験的分析にルフェーブルの業績がどこまで有効であるのか探ることにある。

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    12月6日(日)
    ▼セッション7「日本の古代・中世における〈日常〉」
    田村 隆 (東京大学)
    「紫式部はどのように「日常」を綴ったか」 (日本語)
    平安時代に紫式部によって著された『源氏物語』は、ごく一部の貴族達が登場する宮廷文学という意味では「非日常」の物語と言えるかもしれないが、その「非日常」の中にもやはり「日常」と「非日常」とが存在する。1000年前の「日常」が『源氏物語』あるいは『紫式部日記』においてどのように注意深く綴られているかについて、「和歌と散文」、「漢字と仮名」という二つの側面から考えてみたい。

    並木 誠士 (京都工芸繊維大学)
    「16世紀日本における​風俗画の成立-酒飯論絵巻をめぐって-​」 (日本語)
    風俗画というジャンルは、人びとの日常生活を描いた絵画として16世紀に成立をする。その起源のひとつとなったのは、京都の町を描く洛中洛外図である。洛中 洛外図は、応仁の乱後の京都を描いた都市図として御所や将軍邸、さまざまな名所を描くが、そこには町通りを歩く人びとの日常が様子が見られる。そして、風 俗画のもうひとつの源流になったのが酒飯論絵巻だ。酒飯論絵巻は、酒好き、ご飯好き、両者ほどほどの三名が論争する絵巻だが、描かれているのはさまざまに 展開される飲食の様子だ。ここでは、飲食をテーマにした人びとの日常が露わに描かれている。
    発表では、風俗画の成立に酒飯論絵巻が果たした役割について紹介してみたい。

    ▼セッション8「フランス・ルネサンスと日常」
    久保田 剛史 (青山学院大学)
    「モンテーニュの『エセー』あるいは日常を書くこと」 (日本語)
    『エセー』は、作品中において「著者と同一の実体をもつ書物」と形容されているように、公職の外部に身を置いたモンテーニュが、閑暇と思索の生活のさなかで執筆に取り組み、生涯にわたって加筆を重ねた作品である。実際に、この作品では、モンテーニュ自身の身体的あるいは精神的特徴が「単純で、自然で、ごく普通の」状態で記されているだけでなく、彼が日常の読書経験を通して紡ぎあげた古代作家たちとの対話が綴られている。さらには、同時代の社会に対する考察や、モンテーニュ自身が日頃の生活において注目した卑近なテーマなども、作品における重要な題材となっている。そこで、本発表では、『エセー』における自己描写や日常世界の記録、そして作品に見られる表現形式などに着目しつつ、モンテーニュがいかにして日常性から普遍的な英知を見いだしたのか、という問題について論じてみたい。

    ▼セッション9「18世紀から19世紀初頭における日常」
    井田 尚 (青山学院大学)
    「啓蒙期の作家における日常 ー ディドロの場合」 (日本語)
    「日常」という言葉は民衆の「日常生活」を連想させるが、当時の辞書を参照すると分かるように、十八世紀のフランスにおいては事情が異なった。故に、日常生活の概念はかなり近代的な発明によるものと言えよう。日常生活の概念は往々にして、私的時間や余暇をその余白とする職業労働の時間割に管理される規則的な生活リズムを前提とするように思われるからである。
    しかし、宮廷社会が好む高貴で非時間的な主題を多く扱う古典主義文学においては民衆の個人的・集団的生活の日常的側面があまり知られていなかったとしても、近代のとば口に立っていた啓蒙期の作家達も同様に知らなかったということにはならない。
    本発表では、ディドロやメルシエらの作家がいかにパリ市民の都市生活の日常をそれぞれの作品で文学的に再現しようと努めたかを明らかにしたい。中でも、ディドロが私人として、また作家として、どのように日常世界を表象したのかに着目したい。

    大屋 多詠子 (青山学院大学)
    「曲亭馬琴の「日常」」 (日本語)
    曲亭(滝沢)馬琴(1767―1848)は、江戸時代後期を代表する作家である。読本『南総里見八犬伝』をはじめ膨大な著作があるが、筆まめな馬琴には、さらに『馬琴日記』等、自身の生活や滝沢家の記録も残る。本発表では『馬琴日記』等の手記を手がかりに、作家の「日常」の一端を覗いてみたい。また馬琴の「日常」がその著作にどう映し出されているかについて、特に黄表紙(江戸時代の大人向けの漫画)というジャンルに注目して探ってみたい。

    ▼セッション10「19世紀後半から20世紀前半における日常」
    ニコラ・モラール (日仏会館)
    「明治時代の小説における日常性」 (仏語)
    一見したところ、日常的なものに向けられた美学的関心ほど19世紀後半の日本社会とかけ離れたものはない。黒船来航(1853)から日清戦争(1894)、日露戦争(1904)へと至る期間とは、日本が大きな社会的・政治的変動に見舞われた時期にあたり、人びとの意識はむしろ強い不安定感に囚われていたと言える。フィクションとしての文学は、こうした変動の激烈さに喜んで(程度の差こそあれ)応答しようと努めた。大衆の興味は三面記事的なもの(なかでも不健全な内容のもの)、西洋化に伴う新規な習俗の社会風刺、翻訳文学(ヴェルヌ、デュマ)や政治的小説の奇想天外さへと向かっていた。それゆえ、日常的なものについてのエクリチュールは他のジャンル————日記、詩、筆の赴くままにつづられた随想————のなかに閉じ込められていたのであり、それが小説を深みへと導くようになるには、正岡子規、国木田独歩や夏目漱石の実験を待たねばならなかったのだ。しかしながら、いわゆる「近代的な」最初の小説作品が登場してすぐ、『当世書生気質』(1885)やそれを範とする作家たちのなかに、波瀾万丈な小説に身をゆだねる誘惑と、ありきたりな生活を物語化する計画とが、拮抗するかたちで共存するのを見てとることができるように思う。本発表では、近代最初期の何人かの作家たち(坪内逍遙、二葉亭四迷、幸田露伴)の例を検討することで、全般的なパースペクティヴのなかで日常的なものの概念に接近を試みたい。

    平田 周 (日本学術振興会・獨協大学)
    「永遠性から日常性へ?ーブルトンとルフェーヴルの思想が交わる場」 (仏語)
    「永遠性から日常性」へという移行は、近代を理解する際に参照される教権から俗権への移行と類似したものだろうか。この語の多義的な意味がそうした移行に切り縮められることは、疑わしいのだが、問題は近代という時代なのであり、この時代においてこそ、日常生活は理論的対象として浮かびあがる。ピエール・マシュレーが述べるように、日常性をめぐる省察は、「形而上学の終焉」を経て、哲学的人間学へと向かう哲学的転回として現れる。この人間学は、「原理において神の秩序の秘密を暴きだす可能性」から袂を分かつ、つまり、ニーチェの言葉で言えば、背後世界の幻想との断絶を示すのである。したがって、問題は、日常生活の彼方にある叡智界を明らかにする仕方ではなく、日常生活において、単一の合理化に抗するもの、すなわち謎を発見し、解く仕方なのである。
    本発表の目的は、この神秘化の両義性を明らかにすべく、ブルトンとルフェーヴルにおける日常生活の理論化作業をつき合わせてみることにある。

    ▼セッション11「戦後日本文学における日常」
    桑田光平 (東京大学)
    「「くらし」のリトルネロ:日本戦後詩に関するいくつかの考察」 (日本語)
    「戦争」、「死」、「哀悼」などと同様に、日本の「戦後詩」において中心的主題となっていた「くらし」–この場合、「くらし」とは「日々のくらし」を指す–について、北村太郎、岩田宏、吉岡実などの詩人を取り上げながら、彼らがいかに「くらし」を詩のなかに定着させたのかを検討し、「日常」表象についての諸問題を明らかにしたい。

    塚本昌則 (東京大学)
    「三島由紀夫と非人間の詩学」 (日本語)
    「お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物(いきもの)だ」、と『仮面の告白』の主人公は自分に言いきかせる。自分は人間ではないという認識は、三島の小説にどのような力線をもたらしているのだろうか。ボードレールやヴァレリーなど、三島自身が言及するフランス近代作家にみられる「非人間の詩学」を参照しながら、この問題について考えてみたい。自己の内部において二つに引き裂かれているという意識、人間たちの社会から排除されているという意識、そもそも人間の生活を理解できないという感情は、近代文学において稀なものではない。しかし、それがどのようにして三島の小説世界の造形に結びついているのかという点は、十分に考察されていないのではないだろうか。『仮面の告白』を中心に、三島由紀夫の「非人間の詩学」について考察する。

    ▼セッション12「日常の裂け目」
    塩塚 秀一郎 (京都大学)
    「日常と暴力:フランス現代文学における都市風景への視線」 (仏語)
    ジョルジュ・ペレックによる〈並以下のもの〉への着目に触発され、幾人かの現代作家たち(フランソワ・マスペロ、フランソワ・ボン、フィリップ・ヴァセなど)は、自らの生に制約を課すという独特のやり方で、現代都市の日常を記録する書物を残している。また、ペレックとは直接関わりをもたないものの、フリオ・コルタサルやジャン・ロランらも、同様の試みを行っている。本発表では、これら現代作家によるルポルタージュにおいて、日常の記録によってしばしば戦争・紛争・破壊が喚起されていることを指摘したのち、なぜ日常が暴力を喚起せざるを得ないのか、また、対極的とも言える二つの概念がどのような関係にあるのかについて考えてみたい。

    ブルース・ベグ (ボルドー大学, フランス)
    「日常の恐怖 極限状況におけるトラウマと順化」 (仏語)
    『日常の発見』(2005年)では、われわれはつぎのような考えを主張した。すなわち、日常のリズムに応じて世界に順化する〈日常化〉のプロセスは、さまざまな生きられた状況を親密化したり鎮静化したりする効果をともなう、という考えである。われわれは、この考えをさらにテストすべく、それを戦争や強制収容所における経験、災害といった極限の状況にあてはめ、うえのプロセスで形成された習慣のもつ日常的な基盤が、生に対するこのような衝撃に耐えられるか、それから、混沌とした未知の状況のなかで、慣れ親しんだ基準が破壊され、場合によってはあらたな基準がつくられるとき、それらをつうじて日常の生のうわべをとりもどせるかについて、確かめてみたいと思う。最後に、われわれは、そのような極限の状況から脱することや、「ふつうの」生活にもどることについても考察する。まとめるなら、この発表で論じられるのはつぎの三つの契機である。まず、衝撃的な出来事による〈非日常化〉、つづいて、極限の状況やトラウマ的な状況においてなされる、奇妙かつ不確かな〈再日常化〉、そして最後に、以前のふつうの日常にもどれるかどうかの可能性である。

  • Liste des résumés

    Samedi 5 décembre
    ▼Session 1 « Le quotidien au cinéma »
    TETSUYA MIURA (Université Aoyama Gakuin)
    « L’automatisme chez Bresson et Ozu »
    (en japonais, avec traduction simultanée en français)

    Le thème commun aux derniers films de Yasujiro Ozu est la question de savoir comment accueillir la « séparation » et la « mort » afin de permettre à la vie quotidienne (la communauté familiale) de se régénérer. Or, cet « accueil », ne pouvant jamais résulter d’un jugement rationnel, exige un véritable saut au niveau de l’intrigue. Jusqu’à présent, les commentateurs ont souvent expliqué ce saut inexplicable au niveau psychologique en invoquant la notion japonaise traditionnelle de « mono no aware ». Notre communication se propose de le réinterpréter au moyen de la notion d’« automatisme », en se référant aux œuvres de Robert Bresson.

    ÉLISE DOMENACH (École Normale Supérieure de Lyon)
    « L’automatisme et le quotidien dans la pensée du cinéma de Stanley Cavell : de Fred Astaire à Chantal Akerman »
    (en français, avec traduction simultanée en japonais)

    Nous partirons de l’analyse de textes cavelliens qui mettent en évidence l’attachement ontologique du medium cinématographique à l’expression du quotidien – c’est-à-dire de ce qui se répète dans nos vies ordinaires –, et ce que ce lien ontologique doit à l’exploration par Cavell du concept d’« automatisme » dans le cadre de sa réflexion sur le modernisme du médium cinématographique (dans The World Viewed, 1971). Nous montrerons comment cette analyse a trouvé ultérieurement (Philosophy the Day After Tomorrow, 2005), dans l’exploration des routines de Fred Astaire dans la comédie The Bandwagon (Minnelli, 1953) un objet d’étude privilégié. Mon questionnement portera sur ce qui fait que la routine est heureuse, c’est-à-dire qu’elle devient une « expression appropriée de l’ordinaire » (Cavell). Et comment le cinéma peut exprimer la possibilité inverse de routines catastrophiques, conduisant au drame. Nous proposerons dans un second temps de jeter les bases d’un réinvestissement de cette configuration théorique pour penser l’expression cinématographique des catastrophes ordinaires ou quotidiennes, en prenant pour objet d’étude (en hommage à cette grande cinéaste récemment disparue) le court film de Chantal Akerman : Saute ma ville (1968).

    ▼Session 2 « Photographie et quotidien »
    « Le trépied, la perche à selfie, le drone : une histoire des supports de l’appareil photographique »
    (en japonais, avec traduction simultanée en français)

    Bien que l’histoire de la photographie bénéficie d’une abondante littérature, celle du support de l’appareil photographique, à savoir le trépied, est beaucoup moins connue. Le fait que la photographie ait toujours cherché à se débarrasser de ce support est une des causes de cette méconnaissance. L’entrée de l’appareil photo dans la vie quotidienne des gens n’a été possible qu’après l’abandon de cet accessoire, que la photographie a hérité du télescope et de la mitrailleuse. Or, l’invention de l’appareil portatif a-t-elle vraiment permis de produire des images inédites, qu’on n’aurait pas pu prendre avec le trépied ? Notre exposé cherchera tout d’abord à montrer que les images prises par un appareil compact sont toujours hantées par le fantôme du trépied, et d’autre part à vérifier si de nouveaux matériels comme la perche à selfie ou le drone pourraient enfin conjurer ce fantôme.。


    CATHERINE CLARK (Massachusetts Institute of Technology, États-Unis)
    « Le photographe amateur et les archives du quotidien : Paris, 1970 »
    (en français, avec traduction simultanée en japonais)

    Cette intervention propose de tracer les perspectives sur le quotidien inscrites dans les images issues du concours de photographie amateur « C’était Paris en 1970 », organisé par la Fnac et soutenu par l’ORTF, le préfet de Paris, le préfet de police et le président du conseil municipal. Le concours a attiré près de 15,000 participants missionnés pour sauver de l’oubli le Paris de l’époque, en photographiant tous les recoins de la capitale avec l’ambition d’en établir des archives exhaustives pendant le mois de mai 1970. Ils ont produit des archives, aujourd’hui conservées à la Bibliothèque historique de la Ville de Paris, de 100,000 photos de la ville en pleine mutation urbaine – et de la vie quotidienne des Parisiens.

    ▼Session 3 « Approches théoriques du quotidien »
    PATRICK FFRENCH (King’s College London, Royaume-Uni)
    « Barthes et l’objet : vers un matérialisme du quotidien »
    (en français, avec traduction simultanée en japonais)

    Quel est le rapport entre la « critique de la vie quotidienne », comme elle s’est développée à travers le travail d’Henri Lefebvre parmi d’autres dans l’après-guerre en France, et les tendances philosophiques et théoriques contemporaines vers une « ontologie plate » (Garcia), une « démocratie d’objets » (Bryant) ou une affirmation de la « matière vivante » (Bennett) ou des « trucs » [stuff] (Boscagli) ? Peut-on considérer la critique de la vie quotidienne comme faisant partie d’une stratégie globale vers un matérialisme de la vie quotidienne ? Pour commencer à répondre à ces questions, je propose d’examiner différentes approches de l’objet dans le travail de Roland Barthes. Dans quelques articles des années 1950 et 60, le travail de Barthes sur l’objet le retire de la transparence et de la circulation lisse de l’ordre de l’échange pour promulguer une attention à l’objet comme signe ou comme forme visuelle. On peut se demander alors où, dans l’œuvre de Barthes, l’objet empiète en tant que réalité empirique ou matérielle ? Je voudrais proposer que ce n’est pas tant le cas sous la forme d’une attention analytique au quotidien ou à l’objet en tant que tel comme topos ou comme sujet, mais plutôt dans le rythme et la syntaxe de l’écriture barthésienne elle-même, sous la forme d’une rhétorique intermittente de l’énumératif. À travers une considération de quelques exemples de ces procédures itératives, je voudrais suggérer que Barthes suit une approche quasi-nominaliste qui nous invite à considérer sa place dans le cadre d’un matérialisme de la vie quotidienne.

    BARBARA FORMIS (Université Paris 1-Panthéon Sorbonne)
    « Au-delà du quotidien et du banal : l’ordinaire comme esthétique de la vie »
    (en français, avec traduction simultanée en japonais)

    L’ordinaire n’est ni quotidien (puisqu’il se déploie dans une temporalité plus dilatée), ni banal (puisqu’il ne s’aplatit pas sur le passé et le déjà-connu). L’ordinaire est une forme esthétique de l’existence. Si l’esthétique considère l’art comme le siège privilégié de production de concepts c’est parce que l’art fonctionne au sein du sensible, et ce sensible est avant tout impersonnel et intersubjectif. Tout particulièrement, les pratiques de l’art vivant (notamment la danse, la performance et le théâtre) placent l’œuvre au milieu d’une expérience complexe entre plusieurs sujets, en dépassant l’identification classique de l’œuvre d’art à un objet. L’esthétique devient ainsi une véritable philosophie du corps qui relie le sens du vécu esthétique propre à une œuvre d’art à celui d’une expérience ordinaire. Cela permet d’ancrer la philosophie dans les pratiques artistiques pour tenter de construire une esthétique où la vie ordinaire montre sa capacité créatrice.

    ▼Session 4 « Quotidien et modes de vie »
    NORITO KUNISUE (Journal « Asahi Shinbun »)
    « Le quotidien et le “non quotidien” gastronomique, en France et au Japon »
    (en japonais, avec traduction simultanée en français et en anglais)

    Lorsque Michelin dévoila pour la première fois son Guide rouge de Tokyo en 2007, il fit face à une avalanche de critiques. On a par exemple entendu des choses comme : « les français sont incapables de comprendre les saveurs japonaises ». Ou bien : « ils n’ont jamais mis les pieds dans un restaurant de ramen ». Ou encore : « ne risquent-ils pas d’être trop indulgents vis-à-vis des restaurants français ? »
    On retrouve ce genre de discours assez fréquemment dans les médias japonais. Pour comprendre ce phénomène, il faut être conscient du clivage qui existe entre le Japon qui considère le fait de manger à l’extérieur comme un acte de la vie ordinaire, et la France qui considère la sortie au restaurant comme un moment solennel.
    Je voudrais revenir plus en détail sur les évolutions de l’acte de « sortir au restaurant » dans l’objectif de mieux saisir les différences de pratiques culinaires qui existent entre les deux pays.

    HAJIME HASEGAWA (Université Meiji Gakuin, Tokyo)
    « Le quotidien comme attraction : interaction entre corps et technologie »
    (en japonais, avec traduction simultanée en français et en anglais)

    Cette communication soutient que le concept d’« attraction » peut être utilisé comme un nouvel angle d’approche pour saisir des aspects contemporains de la vie quotidienne. En effet, l’attraction peut être conçue, au même titre que les manèges du Disneyland de Tokyo, comme un système en mouvement de coopération synchronisée entre le corps et la technologie. Il s’agit d’une sorte de mécanisme d’apprentissage basé sur la participation et l’expérience, qui produit en tant que tel des formes assez sophistiquées de domination impliquant les gens dans des situations données et les privant de leur faculté d’imaginer des alternatives externes. Cependant, le concept d’attraction ne va pas non plus sans une part d’ambiguïté, dans la mesure où il inclut un dispositif permettant sa propre relativisation. Le nouvel angle d’approche suivi dans cette étude permet ainsi d’illuminer et d’explorer notre pratique quotidienne sous la forme d’aires de jeux marquées par leur ambiguïté.

    ▼Session 5 « Les couleurs du quotidien »
    JUN TANAKA (Université de Tokyo)
    « Les couleurs du quotidien selon le photographe Shigeo Gochô »
    (en japonais, avec traduction simultanée en français et en anglais)

    Shigeo GOCHÔ (1946-1983) est généralement considéré comme l’un des photographes représentatifs de la « photographie contemporaine » (konpora shashin) japonaise. Notre intervention se propose de revisiter entre autres son dernier recueil photographique – Dans une ville familière (『見慣れた街の中で』) – pour s’interroger sur l’effet psycho-affectif des couleurs dans la photographie. Nous nous attarderons notamment sur ce que Gochô a appelé « les existences se multipliant dans le remous opaque du quotidien », qui renvoient chez lui aux « ombres mystérieuses de l’être humain ». Pour finir, nous traiterons également d’autres œuvres de Gochô telles ses Voyages spirituels (『扉をあけると』), album de taches d’encre peintes évoquant le test de Rorschach.

    ▼Session 6 « Critique de la vie quotidienne »
    BEN HIGHMORE (Université du Sussex, Royaume-Uni)
    “Lifestyle, Taste, and the Critique of Everyday Life”
    (en anglais, avec traduction simultanée en japonais uniquement)

    Henri Lefebvre’s extensive critique of everyday life consistently located its object (everyday life in the modern world) as the product of historical and dialectical forces. Nowhere was this more evident than in the analysis of a consumer-based lifestyle culture, seen as the capitalist replacement of older, more organic styles of living. For Lefebvre the new lifestyle culture revealed the extensiveness of our alienation within daily life while also pointing to an imminent critique of modern life. The intricacies of this historical and dialectical approach become more evident when they are pursued through historical case studies. The British lifestyle shop Habitat, launched in 1964, was a taste formation that offered a lifestyle based on an idea of Mediterranean food, informal sociability, and a domestic aesthetic that liberally borrowed from Japan. Habitat wanted to democratise modern domestic design and ended-up exacerbating the uneven development of everyday life: it simultaneously provided the accoutrements for urban gentrification and the scenography for middle-class radicalism. In this paper I will explore the potential of Lefebvre’s work for the empirical analysis of consumer culture using Habitat as my case-study.

    Dimanche 6 décembre

    ▼Session 7 « Culture et quotidien au Japon de l’ère Heian (11e siècle) à l’ère Muromachi (16e siècle) »
    TAKASHI TAMURA (Université de Tokyo)
    « L’écriture du quotidien chez Murasaki Shikibu »
    (en japonais, avec traduction simultanée en français)

    Le Dit du Genji, roman écrit par Murasaki Shikibu durant l’époque de Heian (11ème siècle), peut être considéré comme une sorte de récit du « non-quotidien » dans la mesure où on y a affaire à une littérature de cour qui raconte la vie d’un petit nombre d’aristocrates. Cela n’empêche cependant pas qu’il y ait, dans ce récit apparemment « non-quotidien », à la fois le « quotidien » et le « non-quotidien ». Nous voudrions dès lors considérer comment ce « quotidien » japonais d’il y a mille ans est soigneusement rédigé dans Le Dit du Genji ou le Journal de Murasaki Shikibu, sous les deux aspects suivants : « Waka et prose » et « Kanji et Kana ».

    SEISHI NAMIKI (Université des arts et techniques de Kyoto)
    « La naissance de la peinture de genre au XVIe siècle au Japon : à propos du Rouleau sur les mérites comparés du saké et du riz »
    (en japonais, avec traduction simultanée en français)

    La peinture de genre s’est établie au 16ème siècle au Japon en représentant le quotidien de gens ordinaires. L’un de ses premiers exemples est Les Scènes dans et autour de la Capitale (Rakuchu rakugai zu), paravent dépeignant la ville de Kyoto de cette époque-là. Dans Les Scènes dans et autour de la Capitale, qui constitue une carte de la ville de Kyoto après la guerre d’Ônin – s’étant déroulée de 1467 à 1477 –, on trouve un aperçu de divers endroits célèbres comme le palais impérial ou les résidences des généraux, mais également du quotidien des gens passant dans la rue. On retrouve cependant une autre œuvre à l’origine de cette peinture de genre : le Rouleau sur les mérites comparés du saké et du riz (Shuhanron emaki). Ce rouleau peint raconte un débat entre un amoureux du saké, un amoureux du riz et un modéré qui apprécie les deux et adopte une position médiane. Mais ce rouleau nous montre aussi les différents aspects des habitudes alimentaires de l’époque, dessinant ainsi assez clairement le quotidien des gens ordinaires, en particulier concernant leurs manières de table. Dans notre intervention, nous voudrions présenter le rôle joué par ce rouleau dans la genèse de la peinture de genre au Japon.

    ▼Session 8 « Écrire le quotidien sous la Renaissance »
    TAKESHI KUBOTA (Université Aoyama Gakuin)
    « Les Essais de Montaigne ou l’écriture du quotidien »
    (en japonais, avec traduction simultanée en français)

    Les Essais, que Montaigne désigne comme un « livre consubstantiel à son autheur », sont le produit d’une écriture et d’une réécriture permanentes dans sa vie d’oisiveté et de contemplation, loin de ses activités politiques. En effet, cette œuvre témoigne non seulement des descriptions psychologique et physique de Montaigne dans sa démarche « simple, naturelle et ordinaire », mais également de son dialogue avec les Anciens entretenu au cours de ses lectures quotidiennes. Montaigne y note aussi ses réflexions sur son époque contemporaine et sur les divers thèmes familiers qu’il remarque dans sa vie de tous les jours. Dans notre intervention, nous tenterons d’expliquer comment Montaigne trouve, à partir de la quotidienneté, une sagesse intemporelle, selon les axes suivants : l’écriture de Montaigne au quotidien, l’écriture du monde quotidien, et le langage quotidien des Essais.

    ▼Session 9 « Le quotidien dans les lettres françaises et japonaises au 18e et début du 19e siècle »
    HISASHI IDA (Université Aoyama Gakuin)
    « Le quotidien chez les écrivains des Lumières – le cas de Diderot »
    (en japonais, avec traduction simultanée en français)

    Le mot « quotidien » nous fait penser à la « vie quotidienne » des gens, ce qui n’était pas le cas dans la France du XVIIIe siècle d’après ce que nous apprennent les dictionnaires de l’époque. L’idée de la vie quotidienne serait donc une invention assez moderne. Elle présuppose sans doute un rythme de vie régulier géré souvent par les horaires du travail professionnel, le temps privé et les loisirs étant sa marge.
    Cela ne signifie pas que les écrivains des Lumières, qui se trouvaient à l’orée de la modernité, ignoraient cet aspect journalier de la vie individuelle et collective des gens, qui était pourtant assez méconnu dans la littérature classique vouée aux sujets élevés et intemporels chers à la société de cour.
    Dans notre communication, nous nous proposons donc de montrer à quel point les écrivains du XVIIIe siècle tels que Diderot et Mercier s’attachaient et s’amusaient à reproduire dans leurs œuvres le quotidien de la vie urbaine des parisiens. Nous nous intéresserons entre autres à la manière dont Diderot représentait le monde quotidien à la fois comme homme privé et écrivain.

    TAEKO OYA (Université Aoyama Gakuin)
    « Les représentations du quotidien chez Kyokutei Bakin »
    (en japonais, avec traduction simultanée en français)

    Kyokutei (Takizawa) Bakin (1767-1848) est un écrivain représentatif de la fin de l’époque d’Edo au Japon. Il a écrit une immense œuvre, dont le roman Histoire des huit chiens du Satomi de Nanso (Nanso Satomi Hakkenden). Mais, en véritable graphomane, Bakin a également laissé d’importantes archives sur sa vie et sa famille telles le Journal de Bakin (Bakin Nikki). Dans notre intervention, à partir de ces cahiers dont fait partie le Journal, nous voudrions mettre au jour une partie du « quotidien » de l’écrivain. Nous montrerons aussi comment le quotidien de Bakin se reflète dans ses œuvres, en considérant notamment le genre de livre illustré qu’on appelle Kibyôshi au Japon (ce qui signifie littéralement « couverture jaune », couleur qui identifiait physiquement cette sorte de manga pour les adultes dans l’Archipel durant l’époque d’Edo).

    ▼Session 10 « Approches du quotidien en France et au Japon à la fin du 19e et au début du 20e siècle »
    NICOLAS MOLLARD (Maison franco-japonaise, Tokyo)
    « Le quotidien dans les romans de l’époque Meiji »
    (en français, avec traduction simultanée en japonais)

    A priori, rien n’est plus éloigné de la société japonaise de la seconde moitié du XIXe siècle que l’attention esthétique portée au quotidien. De l’irruption des bateaux noirs (1853) aux premières guerres impérialistes contre la Chine (1894) puis la Russie (1904), la période connut de grands bouleversements sociaux et politiques, et c’est davantage un sentiment d’instabilité qui marqua les consciences. La littérature de fiction tente de saisir avec plus ou moins de bonheur l’ampleur de ces changements. La faveur du grand public va d’abord au fait divers, de préférence morbide, à la satire sociale de pratiques nouvellement importées, au rocambolesque des œuvres traduites (Verne, Dumas) ou des romans politiques. L’écriture du quotidien paraît plutôt confinée à d’autres genres – le journal intime, la poésie, les écrits au fil du pinceau… – et il faudra attendre les expérimentations de Masaoka Shiki, Kunikida Doppo ou Natsume Sōseki pour qu’elle vienne irriguer le roman en profondeur. Il semble pourtant déjà se dessiner, dès l’apparition des premiers romans dits « modernes », dans le sillage des Portraits d’étudiants d’aujourd’hui (1885), une tension entre la tentation de céder au romanesque spectaculaire et le projet de mettre en récit des vies ordinaires. À travers l’exemple de quelques écrivains de la première modernité (Tsubouchi Shōyō, Futabatei Shimei, Kōda Rohan), nous tenterons d’approcher la notion de quotidien dans une perspective générique.

    SHU HIRATA (JSPS ; Université Dokkyo)
    « De l’éternel au quotidien ? Au carrefour des idées d’André Breton et Henri Lefebvre »
    (en français, avec traduction simultanée en japonais)

    Le passage « de l’éternel au quotidien » ressemble-t-il à celui du spirituel au temporel, par lequel on entend la modernité ? Bien qu’il soit douteux que l’acception multiforme de ce terme se réduise à ce mouvement, il s’agit des Temps modernes dans lesquels la vie quotidienne se dessine à titre d’objet théorique. Comme Pierre Macherey le formule, la réflexion sur le quotidien surgit comme un tournant philosophique qui, passant par « la fin de la métaphysique », se tourne vers l’anthropologie philosophique faisant rupture avec « la possibilité de percer les secrets d’un ordre divin dans son principe », c’est-à-dire l’illusion de l’arrière-monde en termes nietzschéens. La question n’est donc pas de savoir la manière de révéler le monde noumène au-delà de la vie courante, mais celle de découvrir et d’éclaircir dans celle-ci ce qui résiste à une seule rationalisation, à savoir un mystère.
    Le propos de cette communication est de mettre au point l’ambivalence de cette mystification, et ceci en articulant les théorisations de la vie quotidienne chez Breton et chez Lefebvre.

    ▼Session 11 « La question du quotidien dans la littérature japonaise d’après-guerre »
    KOHEI KUWADA (Université de Tokyo)
    « Ritournelles de la vie ordinaire : quelques remarques sur la poésie japonaise d’après-guerre »
    (en japonais, avec traduction simultanée en français)

    « KURASHI » (« la vie » en français) est un des thèmes importants dans la poésie japonaise d’après-guerre, ainsi que « La guerre », « la mort », « les condoléances », etc. Dans ce contexte le terme « KURASHI » signifie presque exclusivement « la vie quotidienne » des gens ordinaires dont font partie les poètes eux-mêmes. Notre intervention a pour but d’éclaircir les difficultés et les problématiques concernant la représentation poétique de la vie quotidienne en examinant certains poètes comme Taro KITAMURA, Hiroshi IWATA, Minoru YOSHIOKA et d’autres qui tentent d’ancrer le « KURASHI » dans leurs paroles poétiques.


    MASANORI TSUKAMOTO (Université de Tokyo)
    « Mishima et la poétique de l’inhumain »
    (en japonais, avec traduction simultanée en français)

    « Tu n’es pas humain », se dit le héros de la Confession d’un masque. La poétique de l’inhumain chez Mishima a beaucoup de points communs avec celle de certains écrivains modernes en France comme Baudelaire, Valéry ou Camus, dont les noms sont souvent cités par l’écrivain lui-même ou par des critiques. La conscience d’être exclu de la communauté des hommes et d’être déchiré en deux à l’intérieur de soi – entre un moi regardant et un moi regardé –, le sentiment de ne pas pouvoir comprendre la vie humaine, la prise de distance inévitable et impossible à combler avec le monde et les autres — toutes ces qualités inhumaines constituent la tonalité fondamentale de son univers romanesque. La vie quotidienne est construite dans ses romans avec ce sentiment d’étrangeté, de bêtise et d’inhumanité. Nous sommes pourtant obligés de constater une grande différence entre la poétique de l’inhumain chez Mishima et celle des écrivains français. L’excès et la radicalité de Mishima impliquent une orientation singulière, que nous espérons dégager en la comparant avec les écrivains français.

    ▼Session 12 « Violence et ébranlement du quotidien »
    SHUICHIRO SHIOTSUKA (Université de Kyoto)
    « Le quotidien et la violence : regards sur le paysage urbain chez quelques écrivains français contemporains »
    (en français, avec traduction simultanée en japonais)

    Inspirés par le concept de « l’infra-ordinaire » de Georges Perec, certains écrivains français contemporains, tels que François Maspero, François Bon et Philippe Vasset, ont rédigé des reportages sur la vie quotidienne dans la ville, en s’imposant des contraintes dites « existentielles ». Par ailleurs, Julio Cortázar et Jean Rolin, indépendamment de ces tentatives perecquiennes, en ont fait autant. Dans cette communication, nous allons d’abord montrer que l’observation minutieuse de la vie quotidienne, faite par ces écrivains dans leurs reportages, évoque souvent la violence comme la guerre ou le conflit. Ensuite, nous voudrions prendre en compte la raison pour laquelle le quotidien est associé à l’idée de violence, et examiner la relation entre ces deux concepts diamétralement opposés.

    BRUCE BÉGOUT (Université de Bordeaux, France)
    « L’horreur quotidienne. Trauma et habituation dans les situations extrêmes »
    (en français, avec traduction simultanée en japonais)

    Dans La Découverte du quotidien (2005), nous avions soutenu la thèse suivante : la quotidianisation, à savoir le processus d’adaptation au monde en fonction du rythme quotidien, avait un effet de familiarisation et de pacification des situations vécues. Nous voudrions tester cette thèse et la soumettre aux situations extrêmes de la guerre, de l’expérience concentrationnaire et des catastrophes pour vérifier si le socle quotidien des habitudes ainsi formé résiste à cet ébranlement de la vie, puis si, dans les conditions nouvelles du chaos, parvient à se recréer un semblant de vie quotidienne à travers la destruction des repères familiers et la création éventuelle de nouveaux. Enfin nous envisagerons la sortie de la situation extrême et le retour à la vie « normale ». Aussi notre intervention traitera-t-elle de trois moments fondamentaux : la déquotidianisation du choc, l’étrange et problématique requotidianisation dans la situation extrême et traumatique, et enfin la possibilité du retour à la quotidienneté antérieure et normale.

ロラン・バルト生誕100周年記念シンポジウム 「Roland Barthes, l’écriture et la vie」

2015年11月9日(月)
青山キャンパス
11号館 1171教室 12:50〜18:00
17号館 17308教室 18:20〜20:30

講演会「母と愛人」2000年以降のモディアノ作品における女性像の変化

2015年4月10日(金)
18:30〜20:00
青山キャンパス15号館 15306教室
主催 青山フランス文学会

講演者 アカネ・カワカミ
(ロンドン大学バークベック・カレッジ准教授)

著書に、A Self-Conscious Art: Patrick Modiano’s
Postmodern Fictions (Liverpool University Press, 2000)、Travellers’ Visions: French Literary Encounters with Japan,
1881-2004 (Liverpool University Press, 2005)、Photobiography: Photographic Self-Writing in Proust, Guibert, Ernaux and
Macé (Oxford: Legenda, 2013)がある。

講演会「ジョルジュ・バタイユ『眼球譚』における盲目の詩学と失明効果」

2014年9月22日(月)18:30〜19:45
青山キャンパス11号館 1122教室
主催 青山フランス文学会

講演者 クレール・ロジェ(リーズ大学)
近代文学で大学教授資格取得
現在リーズ大学(英国)フランス語フランス文学科准教授
著書にDe l’abject et du sublime. Georges Bataille, Jean Genet, Samuel Beckett (Peter Lang, 2012)がある。

2012年度

●ジャン=ギヨーム・バール氏(振付家・元パリ・オペラ座エトワール)講演会
「ダンス・クラシックの今:伝統と革新のはざま、逆説に満ちた世界」
●ジュニエス=カーク氏(エジンバラ大学)講演会
「いわゆる「才女たちの文学」の裏側にある甘美な味わい
ースキュデリの小説における隠されたエロティシズムについてー」

2011年度

●シンポジウム
「フランス哲学と「科学」の思考:構造主義・数学・医学・エピステモロジー」
田中祐理子氏(京都大学)ほか
●ベネディクト・ブドゥー氏(ピカルディー=ジュール・ヴェルヌ大学)講演会
「モンテーニュと「祈りについて」(『エセー』第一巻56章)」
●森千香子氏(南山大学)講演会
「なぜ移民はやって来るのか?──フランス移民政策の本音と建前」
●ベアトリス・ラミロワ氏(ルーヴァン・カトリック大学)講演会
「同族言語における文法化の様々な段階 」

2010年度

●アラン・ジェヌティオ氏(ナンシー第2大学)講演会
「17世紀フランス社交界におけるさまざまな文学ジャンルについて」
●卒業生講演会 松丸友紀氏(テレビ東京アナウンサー)
「アナウンサーという仕事」

2009年度

●卒業生講演会 平田研也氏(脚本家)
「アカデミー賞受賞作品の脚本ができるまで」
講師:平田研也氏(1995年本学科卒 脚本家、ロボット社勤務)
ロボット社で劇場映画、テレビドラマ、ショートムービーなどの脚本を手がける。
脚本を担当した『つみきのいえ』が2009年2月日本初の米国アカデミー賞 短編アニメーション賞を受賞。

2008年度

○卒業生講演会 庄村敦子氏(フリーライター)
「ジャーナリストの日常:ライターとして、母として」

2007年度

○卒業生講演会 町田恵子氏(社会保険労務士)
「セレンディピティ的生き方のすすめ」

2006年度

○バンジャマン・ラザール氏講演会・公演
○卒業生講演会 山田文氏(ルノー・ジャポン)
「私とフランスと私の歩む道」

  • バンジャマン・ラザール氏講演会および公演 (2006.9.26/27)

     モリエールのコメディー=バレエ『町人貴族』の演出で名高いバンジャマン・ラザール(Benjamin Lazar)氏をお迎えし、2006年9月26日(火)と27日(水)、青山学院女子短期大学L402教室を会場に講演会および公演が開催された。一日目は「17世紀におけるフランス人俳優の演技術について」と題する講演が行われ、これを受けて二日目には、ラザール氏に加え、女優ルイーズ・モアティ(Louise Moaty)氏による、詩的・演劇的作品「いかにも、私は夢見ている」が上演された。一日目にはおよそ70名ほど、二日目には120名ほどの学内外の参加者があり、両日ともに盛況を呈した。

    ▼講演「17世紀におけるフランス人俳優の演技術について」
     一日目は、ラザールとモアティ両氏によって、バロック朗誦法や演技術についての講演がなされたが、17世紀のフランス人俳優の所作について、緻密な文献調査に基づく実演を交えての講演は、説得力にあふれるものであった。ラザール氏はまず、高校時代に、演出家ウージェーヌ・グリーン氏と出会い、その教えを受けたことにより、演出家、そして俳優を志すことになった経緯を語った。さらに、東洋の芸術の発見が西洋の演劇人たちに多大な影響を及ぼしたことを指摘した。たとえば、アルトーはバリ島演劇について書き、クローデルは日本の演劇について書いた。演出家アリアーヌ・ムヌーシュキンは、『堤防の上の鼓手』において文楽の手法を直接的に取り入れている。これに対して、ラザール氏のとる方法は、東洋演劇の手法を模倣するのではなく、たとえば歌舞伎などにおいて、ある演目の継承がテクストのレベルのみならず、俳優の所作や声の調子、人物の造形にまで及んでいるという事実に着目し、17世紀フランス演劇のテクストに目を向けて、現代ではもはや失われた17世紀フランス俳優の所作や朗誦法などを、テクストを出発点として、再び見出そうとするものである。そのためには、当時書かれた書物(雄弁術、言語、詩法、歌唱法、俳優の演技術などを扱ったもの)や絵画などが有効な手がかりとなる。

    なかでも、バリーの『弁論を上手く行い、生き生きとしたものにする方法』(1679)は、当時の発音や朗誦法、所作について、重要な手がかりを提供してくれる。現代フランス語においては「ワ」と発音されるoiが、17世紀においては、「ウェ」と発音され、たとえば、「王様」roiは「ロワ」でなく、「ルルウェ」(rの音が強調されるのも特徴)であることなどが実演を交えて紹介されると、会場からは驚きの声があがった。また、発音については、語尾の子音はすべて発音され、通常の会話においては発音されないはずのe音が朗誦時には発音されるということを、実例を交えて、ラザール、モアティ両氏が披露したが、同じ文章を、現代フランス語の発音と17世紀の朗誦法とを対比させる場面で、現代フランス語版においても、つい17世紀の発音の癖が出てしまい、聴衆の笑いを誘うという一コマも見られた。

    また、所作についても、たとえば「率直」、「愛情」、「支配」、「驚き」などの所作に関するバリーの記述の朗読に合わせて実演が行われて、俳優ならではの説明となった。たとえば「率直」を表す所作については、「両腕を引き離し、両手を開き、開いた両手を外側に向けます。というのも、「率直」は、魂の襞を広げるものだからです」という記述があるが、俳優の身体を用いた実例は、聴衆の関心をさらにひきつけていたように思われた。ちなみに、この所作は、現代フランス社会にも生きていて、たとえば、「自分が話していることを信用して欲しい、というのも、こうして率直に話しているのだから」、という気持ちを伝えようとして、このような所作が用いられ続けているという。

    最後に、ラザール氏演出の『町人貴族』のDVDの一場面(ラザール氏はクレオント役で、モアティ氏はルイーズ役で出演)が紹介され、二日目の演劇的作品への興味がますますかきたてられることとなった。

    ▼詩的・演劇的作品「いかにも、私は夢見ている」
     二日目の公演では、バンジャマン・ペロー氏がテオルボを、フロランス・ボルトン氏がヴィオラ・ダ・ガンバを演奏して、ラザール氏とモアティ氏が構想し演じる舞台を彩った。ドゥマシーの「ロンド形式のガヴォット」の演奏に続いて、ラザール氏が、モリエール『アンフィトリヨン』のソジ役で登場。続いてモアティー氏が、テオフィル・ド・ヴィオー『ピラムとティスベ』のティスベ役で登場。ピラムとティスベは相思相愛だが、両家は反目し合っているため、ふたりは両家を隔てる庭の壁の隙間を通して、愛を語る。ある時ふたりは夜中に待ち合わせて、駆け落ちをすることにする。ところが、ある行き違いから、ピラムはティスベが死んだと思い込み、自殺する。その姿を発見したティスベもまた後を追う。この作品を主軸にして、コルネイユの『舞台は夢』、モリエールの『ジョルジュ・ダンダン』、『病いは気から』、ラ・フォンテーヌの『牛乳売りの女と牛乳の壺』、『矢を受けて傷ついた小鳥』などを取り合わせて創り上げられた作品は、マラン・マレーやサント=コロンブ(息子)、デュビュイッソンやシャルパンティエの音楽と絶妙に響き合って、観客を引き込み、トワネットが医者の扮装をする場面では笑いが起き、ティスベが自害する場面ではすすり泣きがもれていたのが印象的であった。

    なおこの講演会については、青山学院大学文学部の環境整備費の恩恵を受け、笹川日仏財団の資金援助も受けて、実現の運びとなったことを記し、ここに厚く感謝申し上げる。
    (文:秋山伸子 写真:Aurélie Arnould-Laurent)

2005年度

○ピエール・ギヨタ氏を囲む国際シンポジウム
「言語・肉体・政治」
○国際シンポジウム
「新たなサルトル像は可能か?」
○卒業生講演会 吉山一輝氏(読売新聞政治部)
「新聞記者の仕事」

2004年度

○卒業生講演会 小田啓之氏(思潮社)
「現代詩出版の歴史と現状」

2003年度

○ジャン=ポール・オノレ氏(マルヌ・ラ・ヴァレ大学)講演会
「偏見から神話へ ー阪神淡路大震災の〈教訓〉」
○卒業生講演会 小林拓己氏
(「国境なき医師団」日本事業開発ディレクター)
○国際シンポジウム
「『帝国以後』と日本―対米従属からの脱却は可能か」
エマニュエル・トッド氏ほか

  • ジャン=ポール・オノレ氏(マルヌ・ラ・ヴァレ大学)講演会
    「偏見から神話へ ー阪神淡路大震災の〈教訓〉」:講演要旨

     ある出来事を描写する場合、純粋に客観的な描写というものは存在し得ない。語り手による選択が行われるからである。その選択は、語り手の文化的先入観に左右される。このことを、阪神・淡路大震災をめぐるフランスにおける新聞・雑誌報道を例に、サン・フランシスコ地震の報道との比較対照を行いながら検証することにする。

    フランスで報道された記事の多くは、ただ単に震災報道をするのではなく、実は震災を通して日本を描写している。神戸について語ることが、すなわち、日本について語ることになるのだ。しかし、サン・フランシスコ地震についての報道は、アメリカ全体のイメージにまで発展することはない。

    阪神・淡路大震災についての報道には、日本のイメージを形成する二つの紋切り型が見られる。ひとつは秩序に関するもので、もうひとつは名誉に関するものである。

    秩序に関する紋切り型は、説明的な役割を果たす。つまり、日本社会の根幹を成しているとされる愚かで残酷な秩序ゆえに、神戸の人たちの一部が震災で苦しみ死んだのだ、と大震災の理論づけが行われているのである。たとえば、雑誌『レヴェヌマン・デュ・ジュディ』2月2日号では、「彼らは、生存者を見つけることにはそれほど執着していないような印象を受ける」というフランス人の救助隊員の談話が紹介されているが、この一節はその後も繰り返し登場することになる。同じような論調は他の雑誌や新聞でも見られ、「警官」や「救助隊員」が夜は捜索をやめて、被災者たちを見捨てていると報道されている。

    たとえば、1月21、22日付けのル・フィガロ紙によれば、「行方不明者の捜索は遅々として進まない。救助隊員たちは、夜は仕事をしないのだ!彼らは装備も不十分なので、特別装備の救援隊は/…/歓迎されるであろう」とあり、フランスの救援を報じた、1月23日付けのリベラシオン紙によれば、「夜間も捜索を続けたいというこちら側の申し出は、日本の警察によって丁重に断られてしまった。これは予期せぬことであった。ではまた日曜日に、ということになった」とある。1月26日付けの週刊誌VSDの報道はこうである。「日本の警察は融通がきかず、夜間は決して働かないという金科玉条に背くことができないのだ」とか、「警官は夜間働くことを拒否するし、自衛隊員たちは命令を待っているだけだ」(本文記事を一部抜き出して太字で強調したもの)など。

    これらの報道文に見られるメカニズムは、噂のメカニズム、つまり噂を形成するディスクールの手法に特有のメカニズムに極めて近い。もう少し厳密に検討を加えてみよう。

    ル・フィガロ紙の記事の中では、並列された次のふたつの文章(「救助隊員たちは、夜は仕事をしないのだ! 彼らは装備も不十分なので」)の間には、論理的な空白が作り出されている。「救助隊員たちは、夜は仕事をしないのだ!」という文章に感嘆符が用いられることで、もしかしたらとんでもない結論が導かれようとしているのかもしれない。このふたつの文章は、「救助隊員たちは、装備が不十分であるがゆえに夜は仕事をしない」という読解ではなく、読み手に次のような読解をさせるものとして読めるのである。つまり、明確な因果関係を示す言葉を欠いているがゆえに、「救助隊員たちは夜は仕事をしない。しかも、装備も不十分である」とも読める。この論理的切り替えによって導かれる結論は次のようなものではなかろうか。救助隊員たちが夜仕事をするのを妨げているのは、物理的に不可能だから(それなら倫理的には赦されるかもしれない)ではなく、それが基本方針だからなのだ(これには弁解の余地はまったくない)という結論である。ル・フィガロ紙の報道から2日後、フランスからの救援隊が遭遇した困難について報告したリベラシオン紙の記事にもまた、同じ結論が繰り返されているが、ル・フィガロ紙でははっきりと言明されなかったこの結論が、リベラシオン紙では、今度は明言されている。しかも、言葉の意味が極めて曖昧になるような情報が添えられている。「これは予期せぬことであった」という表現は、この記事の筆者のコメントなのだろうか? それとも、日本の警察の言葉を自由間接話法で表現したものであり、「そんなことは予定されていません」と日本の警察が、フランスの救助隊からのせっかくの申し出を断ったものなのだろうか? 規律を極度に重視するがゆえにせっかくの援助を断るというシナリオが浮上し始める。リベラシオン紙の報道からさらに2日後の週刊誌VSDの報道では、それまでの報道に見られた用心深さは打ち捨てられて、日本の警察や救助隊への非難が炸裂している。VSDのふたつの記事には、その内容においても形態においても、赦しがたいという思いがますます募っている様子が反映されているように思われる。記事の本文においては、あきれるほど規則に縛られた日本の警察の行動が語られ、記事の本文を抜き出して太字で強調したものにおいては、日本の警察がさしたる理由もないのに夜間の捜索を拒否したと報告されている。苦しんでいる人の描写と、秩序を守ろうとしてかたくなな警察の描写の間には、悲痛な隔たりが設けられる。こうした報道の仕方は、日本嫌いの報道にしばしば見られるものである。こうした報道に慣れた読者にとっては、日本の警察が夜間の捜索を拒否したという「事実」は、まさに、日本社会の機能の仕方そのものに基づくものとして捉えられる。既存の紋切り型こそが、情報に信憑性を与え、噂の源流となっているのである。

    阪神・淡路大震災報道においては、このように秩序に関する紋切り型のマイナスイメージが説明的な役割を果たしていることがわかる。つまり、すべての現象が、機械的にしか機能しない日本社会、個人の主体性が消え失せている日本社会というイメージによって説明されてしまうのである。硬直した秩序を重視する日本社会においては、上層部の政治・行政機関とその下の個人とが分断され、個人と個人の間にも心の交流が欠けているため、心の通い合う連帯は見られないというのだ。これは、サン・フランシスコ地震の報道において、友愛に基づく助け合いのテーマが強調されているのと対照的である。

    阪神・淡路大震災報道において駆使されるもうひとつの紋切り型、名誉に関する紋切り型は、武士道の名残りとされる、日本社会の驕り高ぶった態度を槍玉にあげる。つまり、アジアの小国でしかない日本が驚異的な経済的発展を遂げたことに脅威を感じていたフランスは、この大震災を、身の程をわきまえない日本社会に対する天罰と位置付ける報道を行ったのである。一方、サン・フランシスコ地震の報道においては、国家の傲慢というテーマはまったく見られない。懲罰のテーマは見られるが、それは、共通の価値観を持つアメリカ社会に対してフランスの読者の同情を向けさせるためである。

    種々の状況のうちからあるものを選び取りメディア的出来事に昇格させる新聞・雑誌報道の下には、さまざまな紋切り型や固定観念が隠れているのである。(翻訳・秋山伸子)

2002年度

●ドミニク・ミエ=ジェラール教授(パリ第IV大学)講演会
「クローデルと日本」
●卒業生講演会 岡田好恵氏(翻訳者)

2001年度

●ジャン=ジャック・ベネックス監督講演会(写真)
2001年も暮れの12月4日、「ディーバ」や「ベティ・ブルー」などの作品で知られる映画監督のジャン=ジャック・ベネックス氏を大学9号館にお迎えした。500人近くを収容できる教室がほぼ満杯になり、講演会としては青山フランス文学会始まって以来の盛況となった。
 
ベネックス監督は、司会進行役の平野先生や会場からの質問に答える形で、ざっくばらんに学生たちに語りかけて下さった。学生たちの関心もきわめて高く、臆することなく手をあげる様子には、伏し目がちで大人しい授業中の彼らとは別人の観があった。講演の直後には、多数の学生がサインをねだって演壇に押し寄せ、さすがの平野先生もミーハー集団の脅威に辟易の体、という一幕もあった。

若いファンたちの姿は、ベネックス監督の目にはどう映ったのであろうか。

●卒業生講演会 岡田洋子氏(テレビ朝日アナウンサー)
●国際シンポジウム「東アジアとフランス」
パスカル・カザノヴァ氏、ポール・バディ氏ほか

2000年度

●エマニュエル・トッド氏講演会
「現代世界をいかに読み解くか―人類学的システムとマイノリティ」
●ジュヌヴィエーヴ・イット教授(パリ第X大学)講演会
「小説家としてのサルトル」
●卒業生講演会 濱田知佐氏(ソムリエ)
●国際シンポジウム「20世紀の総括・サルトルの遺産」
ジャン=フランソワ・ルーエット氏(グルノーブル第III大学)
アンリ・ゴダール氏(パリ第IV大学)ほか