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研究余滴

STUDY REMAINING MATTERS 研究余滴

教員によるミニ授業(専門の研究紹介)です。

  • 【中世文学】あかで別れし花の名 山本啓介

    それほど有名ではないものの、印象に残る歌がある。
    学生の頃に演習の授業でたまたま発表にあたった歌だった気がするが、
      桜浅のをふの下草しげれただ あかで別れし花の名なれば
                   (『新古今集』・夏 待賢門院安芸)
    もその一つで、初夏にふと思い出すことがある。
    「桜麻」は麻の一種らしいが詳細は不明で、「をふ」は麻の生えているところ、麻の畑といった意味らしい。現代語訳すると、桜麻の下草よ、ただひたすら茂っておくれ、飽きもしないうちに別れた花(桜)と同じ名前なのだから、といったところだろう。
    「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の反対で、春に散り別れた桜への愛惜の思いの深さゆえに、桜の花とは姿形もさほど似ていない、名前だけが似通った「桜麻」という夏草に茂って欲しいと願うもので、初夏の草木が茂る空気の中で、花の名残をしっとりと思う気持ちが表現されている。
    知り合った人が、仕方なく別れてしまった恋人と同じ名だった時に、その人も元気であって欲しいなと願う気持ちとどこか似ているな、などと学生のころはぼんやり思ったりしたものである。
    この歌の下句の「あかで別れし花の名」という表現が味わいを醸し出しているのだろう。
    しかし、これを「飽きないうちに別れた…」と訳すと、どうも風情がない気がしていた。
    とはいえ、当時はあくまで気楽な鑑賞だったので、深く考えることもなかった。

    話は一度横道に逸れるが、現在は古典文学を研究している。
    文学研究とは、どのようなことをしているのだろうかと疑問に思われることは少なくない。
    研究と言っても様々な段階がある。
    具体的には、くずし字で書かれた原書を探し出して、活字化する。
    活字になっているものを読解して、意味の分かりづらいところに注釈を付け、現代語訳する。
    そうして整えられた書物や資料を読んで、文学や時代や人を論じる、等々である。
    この間まで、ある出版社の依頼で鎌倉前期の勅撰集『続古今和歌集』の注釈書を執筆していた。
    その際に、問題の「あかで」の歌が登場してきて、これと向きあわざるを得なくなった。
    『続古今集』の中には、
      久方のあまのとながら見し月の あかで入りにし空ぞ恋しき
                          (恋三 藤原実方)
    などがあった。
    これは作者実方が口説こうとした女性がたちまち家に入ってしまった後の嘆きを歌にしたもので、「あかで」には家の戸を「開けないで」と「飽かで」が掛かっている。
    空の意味の「あまのと」に家の「戸口」の意を掛け、女を「見し月」にたとえて、それが「あかで入りにし」ことを恋しがるものである。
    もっと話をしたかったという名残惜しい気持ちである。
    訳は、心ゆくまで見ないうちに月が入ってしまった後の空が恋しいように、戸口で見かけたあなたが戸も開けないで入って隠れてしまったことが恋しいことです、とした。
    ここでは「あかで」は直接的に訳さない形としたが、果たしてこれが最善であったかは悩ましい。 「あかで」「別れ」るという表現は古くから詠まれていた。
    最も有名なのは紀貫之の、
      むすぶ手のしづくににごる山の井の あかでも人に別れぬるかな
                        (『古今集』・離別 紀貫之)
    だろう。
    詞書によれば、山越えの時に清水のところで言葉を交わした人と別れる際に詠んだもので、歌を訳すと、すくう手から落ちる滴で濁ってしまって少ししか飲めない山の清水のように、飽き足りない思いのままであなたとお別れしてしまうのだなあ、といったものである。
    たまたま出会った知人と別れる際の名残惜しさを「あかでも」と表現している。
    この他に類似した表現として、
      朝戸あけてながめやすらん七夕は あかぬ別れを空にこひつつ
                        (『後撰集』・秋上 紀貫之)
    など「あかぬ別れ」といいうものもある。
    この歌は、年に一度の織姫と彦星の逢瀬の後の、別れの名残惜しさを想像したものである。

    これらの「あかで」「あかぬ」は、注釈書ではだいたい「飽きないうちに」「飽き足らないうちに」「名残惜しいままで」などと訳されている。
    注釈書はスペースが限られているため、くどくど説明する余裕はない。また、可能な限り原文に近い逐語訳をすべきなので、意訳も避けなくてはならない。 書物にまとめる際には、どうしてもこのような訳になってしまう。

    そもそも花を眺めるにしても、人と愛を語らうにしても、それが終わってしまったからこそ名残惜しく思われるのだろう。
    ずっと続いていたら、いつしか飽きて印象に残らず、詩歌とはならない。
    終わってしまった後に、対象への尽きない名残を思うからこそ、「あかで」なのである。
    不思議なことに、古文のなかでの「あかで」にはそうした諸々のニュアンスが含まれている感じるがするのに、現代語に置き換えると、それらが失われてしまう気がする。
    どうにかしてこれを端的な現代語に訳すことはできないものか。
    大学での講義や演習の際にはこうしたことをあれこれ話したりできるのだが、原稿には紙幅の限界に加えて、締め切りもあるので、結局すばらしい訳も思いつかないままになってしまった。
    とはいえ、どうすれば原文の風情を失わない訳ができるのか、あれやこれやと考え続けることも、飽きることのない仕事の一つである。

  • 【日本近代文学】思案投げ首 片山宏行

    ここしばらく厄介なモノを抱えている。ある著名な作家の直筆原稿である。

    すでに七〇年ほど前に物故した人物で、大正~終戦直後の日本文学界に幅広く活躍し、多方面に大きな影響力を持った文学史上欠くべからざる文学者である。

    わたしがこの作家に興味を持ったのは今から三〇年ほど前で、当時はまだ研究者のあいだでも等閑視されていた感があったが、近年になって、その人と文学について研究が進み、再評価されるようになった。とは言えまだ手つかずの沃地が残されている。この勢いはしばらく続くだろう。

    さてそんなおり、本郷にある老舗古書店から分厚い古書目録が届いた。その写真版のなかに、くだんの原稿が掲載されていた。冒頭とおぼしき一枚と、同時に添えられたと思われる挿絵が一葉、カラー写真で紹介されていた。作品名と簡単な説明がある。「四〇〇字詰め原稿用紙63.5枚の完全揃い。全集未収録」「金森観陽の挿絵17枚」とある。記憶にない作品名だ。枚数も多く、しかも「揃い」で「挿絵つき」。本当だとするとちょっとした事件である。さっそく古書店に電話を入れて、ただちに実見におよんだ。まちがいなく本物であった。

    ここで「まちがいなく」と断言するとき、何を根拠にそう言うのかとよく人から聞かれる。たしかに生原稿の真贋を科学的に証明できるわけではない。せいぜい愛用の原稿用紙を用いているかどうかぐらいが物的証拠だろう。したがってこれを簡単にいうならば同じ作家の文字を長年見てきた「勘」であるとしか言いようがない。とはいってもそれなりの押さえどころはある。

    まず字体、用字、文体といったその作家独特の「くせ」を確認する。字体は年齢や筆記具によって多少の違いはあるが、用字、文体という部分はいわば作家それぞれの生理であって、一生を通してそうちょこまかと変わるものではない。ことに文体はそうである。ためしに好きな作家の作品をたんねんに書き写してみるといい。村上春樹の文体は決して村上龍のそれではないし、高村薫と北村薫はまったく別個の存在だということがわかるはずだ。

    また直筆原稿ならではの決め手として「訂正」の痕跡がある。つまり文章の修正・補筆のしかたである。ある作家は訂正個所をザクザクと二本線で豪快に<見せ消ち>のように消す。が、別の作家は一文字一文字ていねいにグリグリ塗りつぶすように抹消する。この<消し方>の方にむしろ筆者の個性はより強く現れる。補筆にしても同じで作家それぞれのスタイルがある。この<消す・直す>は作家の指紋といってもいいかもしれない。

    もちろん、こうした微細なチェック項目とは逆に作品そのものの「出来ばえ」がある。<内実>であり<姿>である。転倒した言いかたになるが、一流の作家はたとえ失敗作と評された作品でも、やはり水準以下の作品は書かないし、書けない。連載中断や未完の絶筆でも、執筆する作家の気迫や懊悩はひしひしと読み手に伝わって来るものである。形としては未完成でも、ギリギリのところまで魂を刻みこもうとした作家の執念は、読む者をしておのずと襟を正さしめるものがある。これはもう文学にかぎらず、芸術一般の本質論にかかわる問題だ。



    さてこの原稿、本物とわかった。ぜひ手に入れたい。よく研究して評価を定め、ちゃんと陽の光を当ててやりたい。しかし高い。いや、ある意味安いといってもよかった。いまこの作家の評価は高まっている。注目のバロメーターである古書価もどんどん上がっている。ものによっては以前より一桁も高くなってしまった著書もある。こうなると古本は骨董品に転じる。お宝だ。世には金に糸目をつけぬお宝コレクターがいる。彼らが介入すると古本市場はたちまち高騰、これが稀少本で入札(オークション)ともなれば、戦場もかくやとばかりの大争奪戦になる。一介の研究者など、ただ傍観するのみだ。そして<物件>は誰やら一個人のコレクションとなって闇に姿を消すのである。その行方を古書店に問うても、これは彼らの守秘義務。つぎにこの<物件>が姿を現すのはいつのことか。またたとえ出たとしても、今度はさらなるプレミアつきのとんでもない値段になっているだろう。あのページのほんの一行が見たい、ただ奥付の印を確認したい、そんな研究者の真実に対する敬虔な思いは、風に吹かれる灯のごとくはかなく消え去ってしまう。印刷された刊本ですらそうなのだ。一点物の直筆原稿となれば、今この時、この値段で押さえてしまうにしくはない。

    その日のうちにわたしはこの作家の郷理にある文学館に電話した。これまでも何度か似たような事があったときには相談にのってもらい、おおむね文学館のコレクションとして買い上げてもらっていたのである。もちろん公共の施設であるからすでにきっちりと予算が決められている。予定外の高額な物件を自由に買えるわけではない。諸事情を勘案して、それで可能ならばの話である。が、さいわいなことに向こうも同じ目録を見て検討していたとのことで、わたしの報告を信頼してもらい、めでたく原稿は文学館が購入所蔵することとなった。これでこの貴重な資料は個人の持ち物として死蔵されることなく、広く一般に公開され得ることになったわけである。わたしは文学館と学問の神様に感謝した。



    それからまもなくして、文学館から原稿をコピーしたCDが届いた。いそいそと複写機にかけると、薄暗い古書店内で見たときよりもはるかに鮮明なカラーコピーが出てきた。「訂正」の跡はもちろん、編集者が書き入れたのであろう章立て指示の荒々しい朱筆や、植字工たちの担当印が無造作に押されている。おそらくは九十年以前に書かれたと思われる原稿が、今まさに印刷されようとしている、その現場に立ち会っているかのような迫力に息をのむ思いであった。

    この原稿をワープロで打ち直し整理してみると、作品の粗筋は、大正七、八年頃、作者が伊香保温泉に滞在中、ある湯番の老人から聞いた話として、その老人が少年時代に遭遇した奇っ怪な事件を、当時の視点で語る入れ子型の回想談になっている。江戸末期の上州高崎で鉄砲組として仕えていた武士を父とする老人の一家が妖怪変化に取り憑かれ、無残な運命をたどった、という話である。物語の展開、テンポのよさ、サスペンスの配置、少年の目線で語られる不安と恐怖、悲しみ。結末はさっと切り上げて一抹の哀愁を残す。瑕瑾のない、手だれた作家の特質を余すところなく発揮した佳品といっていい。長さは目録の説明にあったように四〇〇字詰原稿用紙で七〇枚弱、全一八章で、各章の場面に沿ったと思われる金森観陽の挿絵が一七枚添えられている。

    たしかにこのような作品はこの作家の作品ほぼ全てを収録した最新版全集29巻のどこにもはいっていない。幻の原稿出現か――。ならば、まずこの作品が、いつどこに発表されたものかを特定しなければならない。生涯を通じて花形・売れっ子作家であった彼の情報はヤマほどある。この作品の素性がわからないわけがない。そう思っていた。

    ところが、さっぱりわからないのである。考え付く限りの、ありとあらゆるツール(デジタル系・アナログ系)を駆使してシラミつぶしに調べたがわからない。作家名・作品名をキーワードにした正攻法だけでは埒が開きそうもない。そこで並行して、作品のネタになっているであろう典拠の詮索から糸口をつかもうと試みた。古今東西の怪異譚・説話・伝説・昔話と手を広げてみたが、類似の話はまったくない。ならば講談・実録・野史の類はどうか。学生時分から興味があったので、この方面の資料やネットワークには少し自信があった。が、結果は同じだった。途方に暮れて、知る人ぞ知るこの分野の第一人者に教えを請うたが不得要領の答しか返ってこなかった。舞台になっている地方の郷土史家や昔話研究会のようなところにも打診したが収穫なし。

    とはいえ、何もかも手づまりというわけでもないのだ。たとえば本作が発表された時期の特定はある程度しぼりこめる。挿絵を担当した金森観陽は白井喬二の『新撰組』中里介山の『大菩薩峠』などで腕を揮った有名な挿絵画家で、没年が1932(昭和7)年だから、本作の仕事をしたのはこれ以前のこととなる。また原稿の一枚目には、いわゆる「作者の言葉」が記されている。

    これは「大衆文芸」とは少し違っているかも知れない。歴史小説でもなく、チャンバラものではない、怪奇談です。長いものではありませんが相当面白いつもりです。回数は二三十回です。

    とある。この「大衆文芸」という言葉、またいわゆる時代小説(チャンバラ物)を中心に「大衆文学」が急激に勢いを増すのが大正末年から昭和初年(1925年)頃である。したがって本作はそうした新しい潮流を意識しながら書かれた、つまり昭和初頭に発表された作品と見てよいと思われる。
    加えて本作が発表された媒体であるが、作者は「相当面白い」「怪奇談」を「二三十回」挿絵付きで連載するつもりだった。となると内容と一章の分量から、これは月刊の大衆文芸誌よりも、回転の早い新聞連載のほぼ一ヶ月分として書かれたものと考えるのが自然だろう。

    当時の新聞および新聞小説について論じるいとまはないが、現在と大きく異なるのは、弱小地方紙が非常に多く、しかもそれらは短命で、次々と統廃合をくりかえし、そのつど紙名をめまぐるしく変えていたことである。そこに連載小説がまぎれている場合がよくある。そして今回の問題にかかわってくるのが『夕刊大阪新聞』という1923(大正12)年~1942(昭和17)年 まで刊行されていた新聞である。というのも古書店が持っていた生原稿には、金森観陽の挿絵のほかにもう一つタテ24センチ・ヨコ10センチの古い茶封筒が付いていて、表には本作の題名が筆書きされ、裏には「大阪市北区堂島浜通リ四丁目三番地/株式会社/夕刊大阪新聞社」と印刷されていたからである。これはもう「夕刊大阪新聞」の調査ですべてが解決する、そのとき正直わたしは安堵した。



    それから一年あまりがたつ。わたしはいまだに「夕刊大阪新聞」に出会えないままである。新聞調査の常識としてまず国立国会図書館に出向いた。が、実物もマイクロフィルムもなかった。あったのは、この新聞の紙名変遷の記録と、この新聞が1942(昭和17)年に「大阪新聞」に名を変えてからのマイクロフィルムだけであった。釣りかけた魚を逃がした思いで、その後も考え得るかぎり八方手を尽くしたけれども、手に入るのは周辺情報ばかり。見たいものだけがポッカリとないのである。

    わたしとしては早々にこの一件に決着をつけ、わたしの話に耳を傾けてくれ、おそらくは予算をやりくりして、高価な原稿を買い上げてくれた文学館に、一刻も早く恩を返したいのである。そしてこの作家の作品史と人生に花一輪を添えたいのである。しかし新聞紙は消耗品である。まして八〇年以上も前の弱小ローカル新聞が現在の日本のどこかに残っている可能性はほとんどない。万策は尽きた。あとは思いもよらぬ僥倖を待つのみである。が、それにしてもあの大作家がどうして、当時においてすら消えてなくなりそうな一地方紙に作品を載せようと思ったのだろうか――。



    事態に変化が起きたのはつい最近である。北海道の老舗古書店の目録に、この作家の生原稿の写真版が出ているのを見つけた。記された作品名は初めて目にするものである。写真は小さなモノクロで詳細は検分できない。しかもただちに北海道まで確認に行く旅費も時間もない。が、枚数が四〇〇字詰め原稿用紙二七枚と少ないせいか、値段的には無理算段をすれば、個人でなんとか出来ない値段ではない。一時的な家庭崩壊が起きても決断すべきだ。迷っていてはお宝スパイラルに消えて行く。速攻、古書店に電話して押さえた。 現物はすぐに届いた。冒頭の名前はまちがいなく彼の手と思われる。が、どうも原稿全体から妙なオーラが漂っている。偽作・代作の可能性がある。しかし、それはそれで代作が少なからずあったという彼の、創作の現実を明かす資料にはなるだろう。慎重に調査すべし。むしろわたしを驚かせたのは原稿の真贋といったことではなかった。原稿の一番下から出てきた一通の茶封筒であった。タテ23センチ、ヨコ16センチ。表には「○○氏原稿」と作家名が筆書きされ、裏には見覚えのある住所、そして「株式会社/夕刊大阪新聞」と黒々と印刷されているではないか――。はてさて、どうする。

  • 【言語学、日本語学】日本語研究の大海原へ 澤田淳

    日本語研究とは、もちろん、日本語について研究することですが、それに対しては様々なアプローチが可能です。日本語母語話者としての直観を最大限生かしながら、現代日本語の文法や意味について分析したり、萬葉集や源氏物語などの歴史的資料をもとに、時代ごとの日本語の構造や、時代の間に見られる日本語の歴史的な変化について分析することは、日本語研究における代表的なアプローチといえます。また、日本列島各地の方言の調査に出かけ(あるいは、自分自身の方言の内省によって)、方言の語彙や文法などを記述したり、日常の様々な談話を録音して、日本語談話の特徴について分析することも、日本語の研究です。ときには、英語や朝鮮語などの外国語にも目を向けて、日本語と比較対照してみることで、日本語の特質がより鮮明に見えてくることもあるでしょう。

    ここで、日本語研究の具体的実践の一例として、日本語の「行く」と「来る」の分析を取り上げてみましょう。

    話し手が発話時に到着地にいる聞き手のもとへと移動する場合、通例、日本語では「行く」、英語では come が選択されます(「*」は不適格性を示すマーク)。

    (1) A:太郎、ちょっとこっちに来てくれる?
    B:今、{*来る/行く}よ。
    (2) A:John, would you come here, please?
    B:I’m {coming/*going}.

    しかし、日本語方言の中には、(1)の共通日本語とは異なる振る舞いを見せる方言があります。沖縄、九州、山陰の一部(島根など)、北陸の一部(富山、石川など)の方言地域では、聞き手領域への話し手の移動を「行く」でも「来る」でも表せます。次は、島根県出雲方言の例です。

    (3) A:今から、こっちに来んかね?
    B:そげなら、すぐ{行く/来ー}けん。待っちょって。 (出雲方言)

    「来る」の方言用法の運用地域は、日本列島の方言を東西に大きく分けた場合の西側地域の一部に限られ、東側地域(関東や東北など)での使用の報告はありません(「来る」の特殊用法の方言分布は、方言学でいう「東西対立」の分布を示しています)。

    平安時代の中央(主として京都)における日本語を反映する中古和文と呼ばれる歴史資料(源氏物語など)を調査してみると、この時代の中央日本語では、聞き手領域への話し手の移動に対して、「行く」、「来」のどちらも使用できたことがわかります。以下の2例は、平安中期の歌物語である『平中物語』からの用例です。

    (4)では、話し手(手紙の書き手)である男の、聞き手(手紙の受け手)である女のもとへの移動が「行く」で表されています。

    (4)さて、男「なほ、いかむ」とあれど、また、えあはでやみにけるに、もと来し男も、来ずなりにければ、女、かののちの男にいひやる。

    【現代語訳:(男は女に)「でもやはりお伺いします」と文をやったけれども、】
    (平中物語・二十九段)

    次の(5)では、話し手である男の、聞き手である女のもとへの移動が「来」(正確には「来」の謙譲語形「参り来」)で表されています。

    (5)女「などかさてはものしたまふ。早う来や」といひたければ、男「いま参り来む。この前栽の、いとおもしろく、くまぐましき、見るなり」といひてぞ、立てりけるに、そこの法師のがり、間どもなく人やる。

    【現代語訳:「どうして、そんなふうにしていらっしゃるのですか。早くおいでなさいよ」といってよこすので、「いますぐ参りますよ。この植込みがたいへん結構で、物陰の多いのを見ているのですよ」といって、】
    (平中物語・十七段)

    古代中央日本語は、先に見た西側地域の一部の諸方言と同様、聞き手領域への話し手の移動において、「「行く・来る」併用型」の運用システムであったことがわかります。西側地域の一部の諸方言で見られる「「行く・来る」併用型」の運用システムは、古代中央日本語の運用システムの残存とみなせるのです。

    一方、現代共通日本語(さらには、古代中央日本語の末裔である現代京都方言)では、聞き手領域への話し手の移動に対しては、(1)の例で見たように、「行く」のみが使用されます。日本語は、(話し手・聞き手の)対話者間での移動において、移動動詞「行く/来る」の運用システムを単純化させたことになります。

    さて、以上の事実を踏まえたうえで、古代中央日本語における「行く」と「来」の選択について、もう少し踏み込んだ考察をしてみましょう。次の例をご覧ください。

    (6)女のもとより、詞はなくて、
    君や来しわれやゆきけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか

    【現代語訳:あなたがおいでになったのか、私が伺いましたのか、判然といたしません。いったいこれは夢でしょうか、目覚めてのことでしょうか】
    (伊勢物語・69段)

    ここでは、「聞き手から話し手への移動」と「話し手から聞き手への移動」という対立的な双方向の移動が描写されていますが、前者には「来」、後者には「行く」が使われています。上で確認したように、「話し手から聞き手への移動」には「行く」と「来」のどちらも使えるのですから、ここでも「来」が使われてもよかったはずです。しかし、少なくとも、中古和文の調査資料に関する限り、「聞き手から話し手への移動」と「話し手から聞き手への移動」の双方向の対立的な移動が描写されている用例で、「話し手から聞き手への移動」に対して「来」が使われている用例は確認されませんでした。たまたま「来」が使われなかっただけなのでしょうか、それとも、何らかの理由で「来」の使用が抑えられたのでしょうか。古代語のデータからでは、そのどちらであるかを判断するのは困難です。

    そこで、同様の対立的な移動状況における日本語方言(ここでは、島根県出雲方言)と英語の移動動詞の運用状況に注目してみることにしましょう。 興味深いことに、出雲方言では、このような対立的な移動が示された状況では、「話し手から聞き手への移動」に対しては、「来る」よりも「行く」が選好されます。出雲方言話者に対して質問調査を行ったところ、次のような例では、「来る」は不自然であり、「行く」の使用が自然であるとの回答を得ました(よって、(7)の「来る」には「??」を付してあります)。このインフォーマントは、(3)のような「来る」は全く自然である(よく使う)と回答しており、方言用法の「来る」を運用する話者です。

    (7)おまえがこっちによう来んなら、おらがそっちに{行く/??来ー}けん。
    (出雲方言)

    英語母語話者に対する調査でも、同様の回答が得られました。アメリカ英語のインフォーマントに次の例を提示したところ、このような状況では、 come は不自然であり、 go の使用が自然であるとの回答を得ました。よって、 come には「??」を付してあります((2)では、 come のみが適格である点と比較してみてください)。

    (8)(on the phone) If you can’t come here, I’ll {go/??come} there instead.
    島根方言や英語では、「聞き手から話し手への移動」と「話し手から聞き手への移動」とが対立的に描写される状況下では、「話し手から聞き手への移動」に対して「来る」、 come の使用が抑制され、「行く」、 go が選好されるという興味深い事実が存在するのです(話し手と聞き手の間の双方向的移動が示されると、話し手と聞き手の視点対立が鮮明となるため、双方向の移動が go と come で表し分けられるのでしょう)。同様のことが古代語でも生じていたと考えるのは自然です。

    古代中央日本語では、「聞き手から話し手への移動」と「話し手から聞き手への移動」の両方が対立的に描写されている状況下では、前者の移動には「来」、後者の移動には「行く」が用いられ、後者の移動に対しては「来」の使用が抑制されていたのです。このような特別な対立的移動の状況を除いては、「話し手から聞き手への移動」に「来」を用いることができたのは、(5)の用例が示す通りです。

    以上、「行く」「来る」を例に、日本語研究の実践の一端を見てきました(注)。

    日本語の研究は、深くて、広いものです。私自身にとってもそうであったように、皆さんにとって、日本語の大海原への航海が、かけがえのない学生時代を実り豊かなものにする、多くの発見と知的興奮に満ちたものであると信じています。

  • 【日本語教育学】語構成の知識を生かした語彙学習 山下喜代(名誉教授)

    言語学習においては、語彙の知識を増やすことが重要なことは言うまでもありません。英語学習でも単語を覚えるために、単語カードを作って暗記に努めたり、何度もノートに書いてみたりと様々な工夫をするでしょう。また、英文を読んでいて分からない単語(未知語)に出会ったときは、辞書で調べるなどの方法をとります。このように、学習を進める上での様々な方法や工夫を「学習ストラテジー」と呼びます。ここでは、言語学習ストラテジーの例として、「未知語の意味を推測する」ストラテジーの一つを取り上げます。それは、「語を語基と接辞に分析する」というストラテジーです。しかし、このストラテジーを用いるためには、語構成についての多少の知識が必要となります。

    ストラテジーの話を進める前に、いくつかの言葉について説明しておきましょう。 語を分析して得られる、意味を表す最小の言語単位を「形態素」と呼びます。つまり、「語を語基と接辞に分析する」ストラテジーの「語基と接辞」は、共に形態素ということになります。そして「語基」は、語の中心的な意味を表し、単独で語になったり、語の構成要素になったりします。「海(うみ)・熱(ねつ)・カップ」のように一つの語基からなる「単純語」と、「川岸・持ち帰り・海岸・ゲームセット」のように複数の語基からなる「複合語」があります。また「接辞」は、つねに他の語基と結びついて語を構成し、語基に形式的な意味を添えたり、語の品詞性を決めたりして、接頭辞と接尾辞があります。例えば、「お菓子・忘れっぽい・無意味・理論的」の下線部です。「意味」は名詞ですが、「無意味」は「無意味な論争」のように形容動詞になり、接辞「無」が付くことによって語の品詞が変化したわけです。これが語の品詞性を決める接辞の機能です。そして、接辞と語基で構成されている語を「派生語」といい、複合語と派生語を合わせて「合成語」といいます。「語構成」は、合成語の構成に関わることで、その語がどのような形態素で構成されていて、それらの関係はどのようになっているのか、また、形態素と語全体の意味関係はどうなのかということを問題にします。

    次に、「語を語基と接辞に分析する」ことによって、「未知語の意味を推測する」というストラテジーの例を示しましょう。まず、英語の例ですが、unnaturalnessが未知語でも、形容詞natural(自然な)を知っていて、否定の接頭辞un-が付いてunnatural(不自然さ)となり、それに名詞を作る接尾辞-nessが付いてできた語であると分析できれば、unnaturalness(不自然なこと)の意味は推測できるはずです。これが、語構成の知識を生かした未知語の意味推測の例です。日本語では、「反社会的勢力排除条項」を例に考えましょう。母語で漢字を使用していない非漢字圏日本語学習者にとっては、漢字の習得は相当の困難を伴うと言われています。例のように10字もの漢字で表された合成語の意味は、語構成の知識がないと理解が難しいものです。まず、語を分析するための語構成の知識としては、次の3つが必要となるでしょう。

    1.二つの語基で構成される漢語(二字漢語)は、一つの意味を表す。
    2.「反-」は「…に反対する」の意味を表す接頭辞、「-的」は「…の状態の」などの意味を表し、ナ形容詞(*形容動詞のこと)を作る接尾辞である。
    3.合成語全体の意味と品詞性は一番右側の語または形態素で決まる。

    これらの知識に基づくと、「反/社会/的/勢力/排除/条項」と分析でき、合成語の中心の意味は「条項」であり、品詞は名詞ということが分かります。また、語基や接辞の結びつきが分かれば、「社会に反するような勢力を排除する条項」という全体の意味を推測することができるでしょう。

    しかし、日本語学習者に必要な語構成の知識については、まだあまり研究が進んでいません。日本語の語構成研究とともに、今後の進展が期待される分野と言えます。

  • 【日本近代文学】都市文学としての西鶴小説 篠原進(名誉教授)

    このページを含め、今、ネット上には多くの情報が満ちています。有益なものがある反面、間違ったものも少なくありません。現代は、それを見分けるメディア・リテラシーと知性(インテリジェンス)が不可欠な時代です。それは、学問の世界も例外ではありません。江戸時代の、こんな話からはじめましょう。

    ある年の瀬のことです。京都の北山方面に帰る老人が、小判三両(現在の米価を基準にすると、一両は約六万円)を拾います。彼はそれを落とし主(柴売り風の人物)に返そうとしますが、なぜか相手は受け取ろうとせず、裁判となります。折しも御前(奉行・裁判官)は体調が悪く、代理で裁いた家老は新たに三両を加え、三者が二両づつ受け取るという「三方一両損」の裁決を下しますが、御前は納得しません。そこで二人を詰問すると、「山家の者驚き」、落とし手に依頼されての狂言であったと白状します。京都の人々に正直者と認知させ、後に大がかりな詐欺を企図していたのだと。首謀者はもちろん、依頼された彼も「鞍馬にちかき麓里」から追放されたという内容です。
    西鶴の裁判小説『本朝桜陰比事』(巻三の四「落とし手あり拾ひ手あり」元禄二〈一六八九〉年刊) に載る有名な話で、落語(「三方一両損」。こちらは大岡越前守の裁判譚です)にも取り込まれ、つい最近本学の入試にも出題されましたのでご存じかと思います。

    上記のごとく、この話は何の矛盾もない内容なのですが、今から五〇年ほど前に西鶴研究の大御所N教授が傍線部「山家の者(=山里に住む者)」を「柴売り」と解釈したことから長い迷走劇がはじまります。そう読むなら、(「山家の者」の発言を記す)以下の文は誤記と考えなければ辻褄(つじつま)が合わなくなるからです。そんな誤記説ですが、もう一人の権力者のT教授が支持したことで定説化し、以後出版された数種の研究書は例外なくそれに従っています。

    はたして、そうでしょうか。N教授は「柴売り」だから「山家の者」と誤解したのかも知れません。ただ、拾得者も北山(京都鞍馬山辺)に住んでいるのですから、彼も「山家の者」なのです。となれば、西鶴は間違っていないことになります。にもかかわらず、なぜこんな誤った読みが定着してしまったのでしょうか。それは、T先生ほどの人が間違うことはないと勝手に思い込んだり、「権威」に刃向かうことを恐れて安易な選択をしてしまったからなのです。どんな偉い人にも間違いはあります。大切なのは従来の説を鵜呑(うの)みにせず、「引用の織物」(ロラン・バルト)としてのテキストを糸のレベルにまで解きほぐし、それと真摯に向き合うことなのです。

    ところで、「山家の者」が「北山へ帰る老人」なら、本件の主犯は当然「柴売りと見へし人」ということになります。細かなことですが「柴売りと見へし人」という表現は、柴売りそのものを意味してはいません。ここはむしろ「(素朴な)柴売りを装った人物」と踏み込んで解釈するべきでしょう。というのは、彼の狙いは「正直者」と京都の人たちに信用させ、より大規模な詐欺を企てる点にあったからです。こうした悪知恵は、「北山に帰る老人」に相応(ふさわ)しくありません。なぜなら、「北山に帰る老人」というのは、それ以上の何も含意しないからです。これに対し、「柴売りと見へし人」というのは、あくまでも「柴売りのように見える」だけであって、正体は不明。この曖昧さが、わけありの人物を設定する上で絶妙なのです。

    後文には、その彼も「洛外」追放となったとありますから、彼がそれまで洛中の都市住民であったことは間違いありません。この話は都市空間が生み出す〈悪〉が、その周辺部に住む実直な老人までをも浸食しつつあるという寓意が込められたものなのです。 西鶴は『本朝二十不孝』(一六八六年)という作品の中で、「家数二十万八千軒」と世界一の大都市に変じて、急速に膨張し炸裂する京都という都会空間が必然的に生み出す〈悪〉、いわば社会悪と呼ぶべきものを巧みに描いています。そうしたテーマが、ここで反復され、戯画化されているのです。

    きわめて今日的な課題を先取りした、西鶴。みなさん方とご一緒に、その小説空間を堪能する日が来ることを心待ちしています。

  • 【言語学、日本語学】昔の数詞を探る 安田尚道(名誉教授)

    私は日本語の数詞の歴史を研究しているが、最初にクイズを出しておこう。「一人・二人をヒトリ・フタリと言いますが三人・四人・五人を昔はどう言ったでしょう?」  さて、日本語では、数える対象によって数え方が異なる。物体はヒトツ・フタツ(漢語ならイッコ・ニコ)、人数はヒトリ・フタリ、日数はフツカ・ミッカ、平らなものはイチマイ・ニマイ、細長いものはイッポン・ニホン、動物はイッピキ・ニヒキ、という具合に。

    漢語数詞の場合は、イチ・ニ・サンにそれぞれの助数詞(個・枚・本・匹)を付ければよいが、和語数詞は簡単ではない。

    ヒト-ムネ(一棟)・フタ-ムネ(二棟)はヒト-ツ・フタ-ツのツを除いたものにムネが付いた、と説明されるが、フツカ(二日)・ムイカ(六日)・ナノカ(七日)とフタ-ツ・ム-ツ・ナナ-ツの関係を説明するのは難しい。この問題を考えるには、方言や古典の用例を参照する必要がある。六日は四国方言でムユカ、七日は関西方言でナヌカと言うが、実はこれらが古い形なのである。そしてココノカは古くはココヌカであった。

    古い形なのかどうかは、古典の用例を探し出すことによって確定できる。たとえばナヌカは『万葉集』に「奈奴可」とあり、平安時代にも多数の仮名書き例がある。ムユカやココヌカ(九日)は平安時代に仮名書き例があるが、この時代にはムイカ・ココノカの例は見えない。

    一方ナノカ(七日)という形は、古典における用例が見つからず、『日本国語大辞典』(小学館)という全二〇巻の大きな辞書にも用例が載っていなかったのであるが、その後、江戸時代の『南総里見八犬伝』に例があることを私が見つけて、『日本国語大辞典 第二版』には載せておいた。

    数詞は漢字で書かれることが多いので、確実な用例を見つけ出すのはかなり手間のいる仕事であるが、その結果わかった日数の古い言い方は、フツカ・ミカ・ヨウカ・イツカ・ムユカ・ナヌカ・ヤウカ・ココヌカ・トヲカ・ハツカであった。仮名で書いてしまうと見えて来ないのだが、これをローマ字で hutuka, mika, youka, ituka, muyuka, nanuka, yauka, kokonuka, towoka, hatuka と書くと、多くは uka という形で終わっていることがわかる。

    従来は、日数を表わす語は、フタ・ミ・ヨ・イツ・ム・ナナ・ヤ・ココノ等にカが付いた、と説明されてきたのであるが、これでは、フタカ・ヨカ・ムカ・ナナカ・ヤカ・ハタカが実在しなかったことが説明できない。むしろ、カが付いたのではなく、-uka が付いたのだ、と考えたほうが良いと私は考える。huta-uka, nana-uka, kokono-uka, hata-uka の u の前の母音が脱落した、と見るのである。わたしの「-uka 説」でも十分説明出来ない点が残るが、従来の「カ説」よりは良いと思っている。

    人数は、純粋の和語数詞で言うのは現代語ではヒトリとフタリだけであるが、古くは三人・四人・五人・六人等も和語数詞で表現したはずである。しかし、なかなか用例が見つからない。それでも三人はミタリ、四人はヨタリと言った例がわずかながら見つかる。

    最初のクイズに「三人はミタリ、四人はヨタリ、五人はイツタリ」と答えた人もあると思う。ミタリ・ヨタリは正解だがイツタリは外れ(テレビのクイズ番組では「不正解」と言うらしいが)である。  五人・六人となると、仮名文学作品でも漢字で書いた例ばかりで仮名書き例は出て来ないのであるが、平安時代の漢和辞書や漢文の訓読文に「五人 イトリ」とある。この形はヒトリ・フタリ・ミタリ・ヨタリからは推測のつかない形で、その故にこそ実在した形(学者や作家・文人が机上で作り上げたのではないもの)だと私は考える。

    では六人以上はどう言ったのかというと、五人までとは全く異なる言い方をしたらしい。参考になるのが沖縄県の宮古方言で、ここでは一人から四人までは「-トリ」「-タリ」型の言い方だが、五人・六人・七人…はイツノヒト・ムユノヒト・ナナノヒト…と言うのである。これからすると、本土方言(奈良・京都の言葉)では、五人までは「-トリ」「-タリ」型、六人以上はムユノヒト・ナナノヒト…と言ったかと思われるが、現時点ではまだ証拠不十分なのである。

  • 【上代文学】『古事記』はどのように書かれたか 矢嶋泉(名誉教授)



    文学史や日本史の教科書には必ず『古事記』という書名は載っていますし、小中学生向けの歴史系漫画シリーズにも編纂に関わったとされる太安萬侶や稗田阿礼の活動が描かれていたりしますから、『古事記』という作品名は皆さんもご存じでしょう。でも、実際に『古事記』を手にとって読んだことがあるという人は、意外に少ないのではないでしょうか。もちろん、高校の古典の教科書の中にはヤマトタケルやスサノヲの物語を載せているものもありますので、内容の一部に触れたことがあるという人は多くいるはずです。でも、ここで皆さんと観察してみたいと考えているのは、著名な学者の手によって漢字・平仮名まじりの訓読文に改められた姿ではなく、『古事記』本来の文字状況(原文)なのです。

    では、『古事記』の原文はどのように書かれているのでしょうか。

    上此五
    尓天神之命以布斗麻迩尓 卜相而詔之因女先言而不良亦還降改言…
    字以音

    引用したのはイザナキ・イザナミ二神の〈国生み神話〉の一節です。天つ神から国作りを委任されたイザナキ・イザナミ二神は生殖行為を通じて国土を産み成そうとしますが、結婚に際して儀礼的手順を誤ったために失敗児を産んでしまいます。そこで天上に戻って天つ神に相談すると、天つ神は占いによって原因を探り、二神に改めて指示を出します。引用文は天つ神が占いをして二神に指示をする場面です。

    さて、わずか34字の情報にすぎませんが、原文には解読の補助となる句読点がありませんので、内容を理解するのはなかなか難しそうに見えますね。でも、『古事記』は次に示すような一定の記述方針に基づいて書かれていますので、その方針さえ理解していれば解読につまづくことはまずありません。

    i.漢字の訓を利用して表意的に記述するのを原則とする。
    ii.文を任意の単位(多くは小句単位)に区切り、漢文の構文を利用して書く。
    iii.文の形式は漢文の形式を利用して書く。

    まずiiiから見てゆきましょう。たとえば引用文冒頭の「尓」字は、漢文の助辞を利用して前文とのつながりを示す接続語「シカクシテ」(後のシコウシテ)を表したものですが、同時に文頭の位置を示す機能をももっています。『古事記』の文頭には「於是(ここに)」「然(しかあれども)」などといった接続語がうるさいほどに記述されていますが、こうした措置は文と文との間の関係性を示すとともに、文と文との切れ目を示す句読点のような機能も負っています。文末にしばしば置かれる「也」「焉」「哉」などの文末助辞も、文のニュアンスを示すだけでなく文末の位置を示す機能をも負っているのです。『古事記』が漢文的な形式を利用して書かれているのは、こうした利点があるからなのです。

    iiに示した問題もiiiと不可分な関係にあります。漢文の形式を利用して文と文との関係を示したり、文と文との切れ目の示したりすることで、文章の枠組をナビゲートするというのが基本方針ですから(iii)、日本語の記述を目指しているとはいえ、実際には『古事記』の文章は大きく漢文に依存しているのです。だから、文やその下部単位である句の記述に際しても、多くの場合、漢文的な構文が利用されています。先の引用文でいえば「因女先言(女先づ言ひしに因りて)」や「不良(良くあらず)」の部分がそうです。

    どうしてこうした非日本語的な構文が多用されるのかというと、一つにはiiiで確認した記述方針との関係が考えられます。たとえば「良くあらず(良からず)」を日本語の語順どおりに記述すると「良不」となりますが、漢文的な枠組を利用することで成り立つ『古事記』中に、ここまでべタな日本語の語順どおりの文字列が現れたら、読み手は混乱するのではないでしょうか(多くの読み手は「不」の下に現れる用言を探して「不──」のように返読して理解しようとするでしょう)。『古事記』は漢文の知識を読み手と共有していることを前提として書かれているわけですから、漢文的な構文を利用して「不良」と書く方が、かえって正確に内容を伝えることができるのです。しかし、全面的に漢文で書いてしまえば、それはもはや中国語への翻訳と異なりません。結局、『古事記』が採用したのは、日本語の文を適当な単位に区切り、句の順序は日本語に従って連ねつつ、各句は漢文的な構文を利用して記述するという方法だったのです。こうしたスタイルを一般に変体漢文とか和化漢文とか呼んでいるわけですね。

    iもまたii iiiと同じ方針に基づくものといえます。日本語で書かれているとはいえ『古事記』の文章は漢文的な形式(iii)、漢文的な構文(ii)を積極的に利用することで成り立っているわけですから、日本語の音列をそのまま再現することはそれほど重視されているわけではありません。日本語の音列面をそのまま文字で表す方法は、当時すでに発明されていました。表意文字である漢字の本来の意味(訓)を無視し、音(オン)のみを羅列する方法です(一般には音仮名といいます)。たとえばヤマは漢字の訓を用いて書けば「山」ですが、音を利用して「夜麻」「也末」などと書くこともできます。しかし、『古事記』の場合、こうした方法は歌謡を除けば、あまり用いられることはありません(歌謡の書き方が異例であるのは、日本語で歌われていることを重視したものと考えられます)。

    記述方針の説明が少々長くなりましたので、話を引用文に戻すことにしましょう。この引用文も、ここまでに説明してきた基本方針にそって書かれていますが、第七字目以下の五文字「布斗麻迩尓」は、実はその方針から外れた例外的な方法が採用されています。引用文の中ほどに「此五文字以音(此の五文字は音を以〈もち〉ゐよ)」という注記が施されているように、ここは漢字の訓ではなく、音(オン)を利用した音仮名でフトマニニという日本語の音列がそのまま書かれているのです。

    では、どうして基本方針にしたがって訓で書かれていないのでしょう。その理由は簡単です。ここには漢字の訓を利用して表意的に表しにくい言葉が含まれているからです。文脈上、天つ神が占いをする場面ですから、ここは「フトマニという卜占の方法で」といった意味であることは推測できますが、ではそのフトマニを漢字の訓を用いて表意的に表すにはどうすればいいでしょう。「占」や「卜」では単なるウラナヒの意味と理解されてしまいそうです(そもそも単なる卜占の意味であれば、引用文中の「卜相(ウラナフ)」を始めとして、「卜(ウラ)」「卜(ウラフ)」「占合(ウラナフ)」などの例が『古事記』中には見られますので、そのように書けたはずです)。フトは立派なの意を表わす接頭語で「太」と関係がありそうですが、『古事記』では表意的に「太」の字で表された例はありません。さらに問題なのはマニです。意味的には「卜」や「占」などの文字と関係がありそうですが、先に示したように『古事記』中には「卜」や「占」をマニと訓むべき例はありませんので、読み手がマニと訓んでくれる可能性は限りなくゼロに近いといっていいでしょう。「布斗麻迩尓」という例外的な記述は、訓を用いて表意的に表すことができなかったために次善の策として日本語の音列を音仮名で記述したものと考えられます。



    さて、皆さんといっしょに観察したかったのは、その先の問題です。名詞フトマニが音仮名を用いて「布斗麻迩」と書かれた関係で、普通は音仮名で書かれることのない格助詞ニが「尓」という音仮名によって文字化されることになりました。基本的に漢文の形式・構文を利用して書かれる変体漢文では、通常、中国語には存在しない助詞や助動詞は文字として表されることはありません(たとえば「行山(山ニ行く)」「飲水(水ヲ飲む)」などのように、格助詞ニ・ヲは動詞+目的語という漢文的構文中に潜在する形で表されます)。『古事記』の場合、格助詞ニは「於─」という反読構文によって表されることもありますので、ここも「於布斗麻迩尓」と書くことができそうですが、問題はそれほど単純ではありません。一般に「於」はオの音節を表す音仮名としても広く用いられる文字なので(「於」が平仮名「お」の字母であることを知れば納得できますね)、「於布斗麻迩尓」と書くとオフトマニニと訓まれてしまう可能性も出てくるのです。

    ここではフトマニニという日本語の音列を示すことが重要であるわけですから、別の読み方ができるような記述は避けるにこしたことはありません。しかし、漢文的な「於─」構文を利用しない場合、「布斗麻迩」という名詞だけを文字化しても格助詞ニは読み手には伝わりませんので、ここはどうしても格助詞ニまで音仮名で文字化する必要があるところといえます。その結果、音仮名で表された五音節の第四音節と第五音節に同音のニが連続することになりました。そもそも、ここはフトマニという名詞を表意的に文字化することができないために、次善の策として音仮名による記述方法が採用された箇所ですから、読み手には書かれた音列の意味する内容がよく理解されない可能性のある箇所です。ここまで第五音節は手段・方法を表す格助詞ニであるという前提で説明して来ましたが、表意的な記述を断念した記述方法で書かれている以上、実はフトマニニの五音節がどういう語構成になっているのかは、示された音列からは分からないのです。

    しかし、ここに示した引用文には、そうした問題を乗り越えるための手段が講じられているのです。まず、「布斗麻迩尓」の五音節のうち、第四音節と第五音節が異なる音仮名で書かれていることに気づきませんか。これは意味なく異なる音仮名が用いられているわけではなく、「布斗麻迩」の第四音節ニと第五音節のニとが異なることを──「布斗麻迩」という四音節とそれに続く「尓」とが不連続であることを──音仮名の違いによって示そうと意図した用字法なのです(「布斗麻迩迩」と書かれていれば、等質の音仮名による連続した文字列と意識されるでしょう)。つまり例外的な音仮名による記述によって表されてはいるけれども、「布斗麻迩」と「尓」とに分節される文字列というわけです。

    その上で先ほどペンディングにした注記「上」の示す意味を考えてみましょう。平安朝に作られた『類聚名義抄』という漢和辞典などによって、格助詞ニは古くは上声に発音されたことが分かっています。この場合、「尓」字に付されたアクセントの注記が示す意味は実に重要であることがわかりますね。表意的に記述することを断念したと見られる「布斗麻迩尓」の文字列ですが、第四音節と第五節音節を異なる音仮名で書くことで「布斗麻迩」と「尓」とが不連続であることが読み手に理解できるように配慮されており、しかも第五音節に上声に発音すべき注記「上」を施すことで、それが格助詞であることを示そうとしているのです(もちろん当時は格助詞などという呼称はありませんでしたが)。

    太安万侶の日本語に対する深い洞察力と読み手に対する繊細な配慮──ちょっとした感動をおぼえませんか。

    (注)引用文を訓読すると次のようになります。
    尓(しかく)して、天神(あまつかみ)の命(みこと)以(も)ちて、布斗麻迩尓(フトマニに)卜相(うらな)ひて詔(みことのり)したまひしく、「女(をみな)先(さき)に言(い)へるに因(よ)りて良(よ)くあらず。亦(また)還(かへ)り降(くだ)りて改(あらた)め言(い)へ」…。

  • 【日本近代文学】夏目漱石『こゝろ』 日置俊次

    『こゝろ』は夏目漱石の長編小説で、高校生の必読書ともいわれていますね。この『こゝろ』について、その刊行にまつわるエピソードをお話しましょう。
    ところで『こゝろ』は『心』と書かれることもあります。いったいどちらの題名が正しいのでしょうか。
    まず、大正3年9月に刊行された『こゝろ』初版本の序文から引いてみましょう。

    『心』は大正三年四月から八月にわたって東京大阪両朝日へ同時に掲載された小説である。
    当時の予告には数種の短篇を合してそれに『心』という標題を冠らせる積(つもり)だと読者に断わつたのであるが、其短篇の第一に当る『先生の遺書』を書き込んで行くうちに、予想通り早く片が付かない事を発見したので、とうとうその一篇丈(だけ)を単行本に纏めて公けにする方針に模様がえをした。
    ここに説明されているように、漱石はさまざまな短編を書くつもりでした。最初に新聞に発表された段階では「心 先生の遺書」という題名で連載されています。つまり、「先生の遺書」という短編に、ほかの短編を合わせて、「心」という短編集を作ろうと思っていたのです。しかし、「先生の遺書」の物語が1つの長編へと成長してしまいました。
    さて、上に引用したように、単行本の序文でも「心」という漢字が用いられています。このように執筆計画には変更がありましたが、「心」という言葉に漱石が執着していたことは間違いありません。 『心』広告文(「時事新報」大正3年9月26日)でも、漱石は次のように書いています。

    自己の心を捕えんと欲する人々に、人間の心を捕え得たる此作物を奨む。
    この単行本の表紙には『康熙字典』の「心」の項からの引用文があります。この辞典は清の康熙帝の勅撰によって編纂された漢字辞典ですので、引用文には、当然、漢字しか載っていません。したがって「心」という漢字が、単行本の表紙にも記載されているわけです。

    しかし作品の本文は、「こゝろ」とタイトルが付されて始まっておりますので、やはり正式なタイトルは『こゝろ』だと考えるべきでしょう。「こゝろ」とひらがなにした方が、やわらかい、やさしい、あるいは身近な感じがしますね。
    表記から「ここ」という音も見えてきます。どこでもない、いま「ここ」にある、この自分の「こころ」という感覚が生まれて来るかもしれません。

    さて、この初版本を開くと、見返しの裏にars longa, viva brevis.(芸術は永く、人生は短い)の朱印がありますが、この朱印や、扉、奥付などの模様、そして本の装幀も漱石自身が手がけました。

    すこし唐突ですが、ここでしばらく岩波茂雄という人物にまつわる話をしておきたいと思います。
    彼は長野の諏訪の人です。上京して第一高等学校を卒業しました。その後、故郷に戻って田畑を売りました。こうして作った資金をもって、朝日を浴びる八ヶ岳を見上げつつ、再び上京したといいます。
    彼は大正2年、神田神保町に古本屋を開きます。これが岩波書店です。翌年、大正3年に夏目漱石の『こゝろ』を刊行し、出版業に進出しました。漱石は当時大作家でした。無名の古本屋が漱石の作品を出版するのは、異例のことです。
    「朝日新聞」連載の「心」に感動した岩波茂雄は、漱石に会って、涙ながらに出版を懇願しました。その真率な心に感じた漱石が、とうとう了承すると、彼は「出版費用も出してください」と言ったそうです。なんと漱石はその申し出も引き受けました。漱石は、岩波の「心」に感動したのかもしれません。

    『こゝろ』は、岩波書店刊とはなっていますが、本当は漱石の自費出版でした。漱石が本の装幀まで引き受けたのは、岩波を助けようという気持ちがあったのでしょうか。またそこには、漱石の美術に対する並々ならぬ関心や、駆け出しの素人の出版社に任せられないという気持ちもあったはずです。また、これが全部自分の資金による自分の手作りの本なのだという意識が働いたせいもあるでしょう。
    『こゝろ』の装幀は、斬新なオレンジ色の地に漢字の文様が入っていて、深みのある魅力的なデザインとなっています。これは周の岐陽の「石鼓文」といわれるものです。中国にいた橋口貢が漱石に送った拓本の文字を使ったといいます。

    漱石は大正5年に亡くなります。岩波書店は『こゝろ』の装幀をそのまま用いて、『漱石全集』を刊行しました。この『漱石全集』の人気によって、岩波書店は飛躍するのです。
    いってみれば岩波版『漱石全集』は、漱石自装であるということになります。

    死後に発刊されることになる自分の全集を、自分で装幀した作家は、なかなかいないでしょう。『こゝろ』という作品にはさまざまな謎がありますが、またその出版には、作者を含むさまざまな人々の揺れ動く心模様が、込められているのですね。

  • 【近世文学】パロディと江戸文学 大屋多詠子

    江戸時代、特に後期の小説や演劇には、荒唐無稽な話が多くあります。幽霊、化け物や妖術使い、神仙が登場したり、忠義に一途で、主君の身替わりに妻子を殺したりする、今では非情とさえ思われる人物も登場します。

    曲亭馬琴(きょくていばきん)の『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』はその最たる例といえるかもしれません。『八犬伝』は室町時代、安房国の領主であった里見家のために、犬の字を苗字に持つ不思議な縁で結ばれた8人の仲間(八犬士)が尽力するという話です。

    ここでは八犬士のひとり犬村角太郎(いぬむら・かくたろう)その妻、雛衣(ひなぎぬ)の話をご紹介します。

    雛衣は霊玉を誤って飲み下してしまい、やがてお腹がふくれてきます。夫、角太郎の両親に、不義の疑いをかけられた雛衣は言い訳できず、家へ戻されます。角太郎も親に逆らえず、木戸に鍵をかけて謹慎しているところへ、雛衣が外から夫へ呼びかけます。

    ーーーーーー
    「二人が中は高安(たかやす)の、井筒よりなほ縁し(えにし)は深き、ふりわけ髪の初(はじめ)より、親の結びし妹伕川(いもせがわ)、……外に花見ず、月見の船の、浮きたる恋にあらざれば、……紫鴛鴦(をしどり)も、及ばじと思ふ年を経て、夏の日子(ころ)より小腹(おなか)の病痾(やまひ)……この身に夤縁(まつは)る一期の浮沈。宿の仇浪(あだなみ)騒ぐとも、神を誓ひに肝(きも)むかふ、清きこころを君こそしらめ」
    ーーーーーー

    二人の仲は筒井筒の男女の縁よりも深く、振り分け髪の幼いころに親が交わした夫婦の約束で、心移りすることもなく浮いた恋であるわけでもなく、オシドリも及ばないほどの睦まじい年月を過ごしたのに、夏の頃からふとしたお腹の病で、一生に係わる大事になってしまいました、周囲が何と言おうと、神に誓って潔白な私の心をあなたは知っているでしょう、と雛衣は語ります。

    「高安の井筒」というのは、『伊勢物語』二十三段で「筒井筒 井筒にかけし・・・」という歌を詠み交わした幼なじみの男女の話のことです。「花見」から「月見」、「船」から「浮き」という縁で言葉を引き出したり、「こころ」の枕詞の「肝むかふ」を使うなど修辞も優れています。また、この場面は『平家物語』の横笛と滝口入道の話を踏まえています。何も告げぬまま出家した滝口入道を、恋人だった横笛が訪ねてきますが、入道は追い返してしまうという場面です。古典を引きつつ、美しさと哀れさを備えた叙情的な台詞となっているだけでなく、七五調がリズミカルで「雛衣くどき」として愛誦されました。

    この後の場面で、雛衣は、角太郎の父親、一角(いっかく)の眼のけがを治す妙薬として、胎児の生き肝と雛衣自身の心臓の血を要求されます。一角は実は化け猫が人間に化けているもので、このような残酷な要求をしているのです。角太郎は一角のあまりに非道な願いにいったんはあらがうのですが、親への孝行という道徳に縛られてあらがいきれず、雛衣はとうとう自害します。その腹からは霊玉が飛び出して一角を打ち、雛衣の懐胎の疑いは晴れます。一角が化け猫で、実の父の敵であることを悟った角太郎は、化け猫を退治して父と妻の恨みを晴らします。

    霊玉による偽の懐胎、化け猫、血の妙薬という趣向をはじめ、妻の命よりも道徳を重んじる角太郎の人物造形も現実にはあり得ないようなものですが、状況が不条理であるからこそ、よりいっそう読者は、雛衣の悲劇に同情したのです。

    江戸時代の読者は、非現実的なストーリーのなかに極端なかたちで描かれる人間の行動や喜怒哀楽を通して、身分や家に縛られた現実生活での鬱屈した感情を解放していたのです。

    「雛衣くどき」が修辞・場面ともに古典のパロディとなっているように、江戸文学の基本的な性格のひとつとしてパロディもあげられます。江戸文学のパロディの多種多様な魅力にあふれています。みなさんも江戸文学に親しんでみませんか。

  • 【中世文学】和歌というもの 廣木一人(名誉教授)

     大和は国のまほろばたたなづく青垣山ごもれる大和しうるはし

    これは日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が故郷、大和へ帰る途中、死を悟って詠んだ歌と『古事記』に書かれています。国粋主義的に利用されたりするといやですが、ひとりの人間が故郷への思いを幻影の中に見たと考えると、だれしもがよくわかり、共感できる歌だと思います。

    皆さんはよく歌を歌いますね。嬉しい時、寂しい時など、特に一つ一つの歌のことばが心の中に染みいると思います。

    今はリズムもメロディーも歌詞もさまざまで、一定の形というものはないようですが、昔は歌にはもう少し定まった形がありました。恐らくどの国・民族にもそのような歌がありました。人々は気持ちの高まりともに、自分自身のため、またそれを人や神などに伝えるために、歌の形で自分の思いを表現したのです。上にあげたものは、まだきちんと形が整っていませんが、いつか幾つかの形ができ、その中で五七五七七という短歌の形式が主流になりました。そして主としてこの短い形で、日本人は人の心や四季の諸相を千年余表現し続けてきたのです。

     うらうらに照れる春日に雲雀あがりこころ悲しも独りし思へば

    これは『万葉集』の編者に目されている大伴家持の歌です。この歌には「痛み悲しむ心は歌でなければ払うことはできない」という説明がついています。これは家持という人の孤独な心の吐露なのでしょう。季節は春、でも私ひとりは悲しい心にうちひしがれている。皆さんもこのようなことがあったと思います。その時、みなさんはどのように慰められ、人に分かってもらおうとしましたか。そっと、または大声で歌を歌いましたか。

    『土佐日記』で著名な紀貫之は、『古今集』の序文でこう言っています。

     やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。…心に思ふことを見るもの、聞くものにつけて言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。

    最後に『新古今集』にある藤原定家の歌をあげてみます。

     春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空

    「春の夜」とはどのような夜でしょうか。冬は夜が長い、それが次第に短くなっていきます。そのような夜ですね。しかも春。春は何か淡い期待が芽生える季節です。その夜に見た夢、わずかに期待に胸をふくらませた恋の夢?「浮橋」とは小舟などを並べ、板を渡した橋です。向こう岸に渡れるようでそうでもないような揺れ動く危うい橋です。

    「春の夜の夢の浮橋」からどのようなことが感じ取れるでしょうか。はかない恋への期待でしょうか。しかし、それも「とだえ」てしまいます。この語句の中に『源氏物語』の巻の名が含まれていることに気づくでしょうか。最終巻、薫と浮舟の悲しい恋の物語を描いた巻の名です。悲しくつらいけれども、「恋」というものはそのようなものなのでしょう?目が覚めて外を見たら、ほのぼのと明けて行く空に見える峰から恋の終わりを告げるかのように、雲が離れていった、と下の句にあります。

    日本人が長くかかって熟成してきた言葉、心と自然との交錯という表現方法。人の心をどのように表現し伝え得るかの至りついた一つの形がここにあります。

    文学では腹はいっぱいにならない、風邪も治らないかも知れません。しかし文学は、人として大切な心を歴史を、人間にしか扱えない言葉で伝えてきました。抽象的な言い方ですが、ここに「人」そのものがあると言ってもいいと思います。それを文学、中でも和歌は凝縮した形で皆さんに示してくれるのです。

  • 【平安文学】<やまとことば>と物語 土方洋一

    川端康成の小説『雪国』は、東京から来た島村という男と、雪国の芸者駒子と葉子との交情を描いた物語です。その有名な冒頭は、次のようなものです。

    国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
    島村が雪国に到着する場面で、この時島村は、同じ列車に乗っていた葉子と出会うことになります。

    この引用部分だけではわかりにくいかもしれませんが、『雪国』の冒頭は島村という人物の視点で描かれています。ずっと列車に揺られてきて、長いトンネルを抜けたとたん、まるで別世界に来たように一面に雪が積もっていて、背後に置き去りにしてきた日常の世界との感じの違いに驚いているという感覚が、島村自身の内面の感覚として描かれているため、小説を読んでいる私たち読者は、いつの間にか、自分が汽車に乗ってたった今雪国に到着したかのような印象を抱きます。

    この冒頭の文章を、エドワード・サイデンステッカー氏は次のように英訳しています。

    The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.
    一見、忠実な翻訳のように見えますが、原文と英訳とを比較すると、ずいぶん感じが違います。英訳では、冒頭の部分が、「汽車は長いトンネルを抜けて雪国に入ってきた」というような文章になっています。つまり原文では、汽車に乗っている作中人物(島村)の側から雪国に到着した時の気分が表現されているのに対して、サイデンステッカー訳では、「汽車が雪国に到着した」という客観的な事実を伝える表現になっているのです。

    サイデンステッカー氏の英訳が不正確だとあげつらっているわけではありません。先にも述べたように、この物語の冒頭は、島村という人物の主観に寄り沿った記述になっていて、形式的には三人称だけれど、実質的には一人称に近い表現になっています。だから、読者である私たちは、自分が島村という人物になって物語の世界に身を置いているような気持ちになるのです。日本語を母語とし、日本語で書かれている物語を読み慣れている人ならば、まず間違いなくそのような読み方をすることでしょう。

    しかし、そのような三人称なのか一人称なのかが曖昧な表現は、どうやら英語にはうまく移しかえることができないようで、英語で表現する場合には、列車が雪国に到着したという出来事として客観的に記述することしかできないらしいのです。

    意外なことに、これに似た文章は、うんと古い時代の、たとえば『源氏物語』のような物語の中にも見出すことができます。

    次の文章は、桐壺巻の中の、靫負命婦という人が、天皇の使いとして、亡くなった更衣の里邸を弔問する場面です。古典の教科書によく採られている場面なので、教室で習ったことがあるという人も多いと思います。

    命婦、かしこにまで着きて、門引き入るるより、けはひあはれなり。やもめ住みなれど、人ひとりの御かしづきに、とかくつくろひ立てて、めやすきほどにて過ぐしたまひつる、闇にくれて臥ししづみたまへるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ、八重葎にもさはらずさし入りたる。
    「命婦」という主語が出てきますが、文末で「あはれなり」と感じているのは誰でしょうか。

    「命婦が、里邸の荒廃した様を見てあわれに思った」という意味ではなさそうです。更衣の里邸の荒れ果てた様子を目の当たりにして、胸を衝かれている命婦の心情が、命婦の側から表現されているのではないでしょうか。作中人物である命婦の眼と心を通して情景が語られているので、読んでいる私たちもまた、いつの間にか自分が命婦になり、荒廃した更衣の里邸を目の前にしているような、強い印象を受けることになるのです。

    ここで取り上げた二つの場面に共通しているのは、三人称で書かれているのに、叙述の視点が作中人物の眼と心に同化していて、その結果、読者である私たちも物語の世界の中に入り込み、自分自身がその場の雰囲気を体験しているかのような感覚にとらわれる、ということです。そのことは、書かれている対象であるはずの作中人物が、純粋な対象(object)ではなく、語っている主体(subject)と地続きになってしまう場合があるということを意味しています。

    こうした表現は、『源氏物語』や『雪国』に限ったことではなく、日本語で書かれた多くの物語に共通してみられる現象であり、しかも英語やフランス語といった他の国の言語には翻訳しにくい表現であるようです。そのことから考えると、これはおそらく、主語が曖昧であるとか、「た」や「けり」が必ずしも時制の表現ではないというような、日本語(やまとことば)が言語として持っている性質と密接に関係していることなのではないかと思われます。

    日本語が持っている特質がどのような表現効果を生み出し、それがどのように私たちを感動させてくれるのかという仕組みがだんだんわかってくるのは、わくわくするような体験ではないでしょうか。