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2015.12.06
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〈日常〉とは何か 西欧の場合、日本の場合 発言要旨集
12月5日(土)
セッション1「映画における日常」
三浦哲哉 (青山学院大学)
「ブレッソンと小津における自動性」 (日本語)
小津のとりわけ後期作品に共通する問いは、日常的な生(家族的共同体)を再生産するために、いかにして「別れ」と「死」を受け入れることができるか、であると言うことができる。しかし、その「受け入れ」はつねに合理的判断を超えており、物語展開に心理を超えた飛躍を要請する。従来、このプロセスは、「もののあはれ」といった伝統的観念によって説明されてきた。本発表では、ブレッソンを参照しつつ、「自動性」概念からこれを再解釈する。
エリーズ・ドムナック (リヨン高等師範学校, フランス)
「スタンリー・カヴェルの映画論における自動性と日常 — フレッド・アステアからシャンタル・アケルマンへ」 (仏語)
われわれが出発点とするのは、スタンリー・カヴェルのテクストにおける分析である。かれのテクストは、映画というメディウムが、〈日常〉(われわれの通常の生活でくりかえしあらわれるもの)の表現に存在論的にむすびついていること、それから、この存在論的なつながりが、カヴェルによる「自動性」の概念の探求(かれはこの探求を、1971年の『眼に映る世界』のなかで、映画のメディウムのモダニズムについて考えながらおこなっている)に、なにを負っているかもしめしている。われわれはまず、この分析が、いかにしてその後(2005年の『明後日の哲学』)、フレッド・アステアがコメディー『バンドワゴン』(ミネリ、1953年)のなかでおこなったさまざまな〈ルーティン〉の探求を、研究の特権的な対象とすることになったのかを明らかにしたい。われわれが提起する問題は、なにがこのルーティンを〈うまい〉ものとしているのか、すなわち、なにがそれを「通常の生活をぴったりと表現するもの」(カヴェル)としているのかにかかわる。さらに、いかにして映画が、それとは反対の可能性、惨劇にいたるような〈災厄のルーティン〉の可能性を表現するものとなりうるかにも関係する。つづいてわれわれは、通常あるいは日常におけるさまざまな災厄を映画でどう表現するかについて考えるべく、うえのような理論的な形態をあらためて使用するための基盤を築きたいと思う。そのさい、シャンタル・アケルマンの短編映画、『街をぶっとばせ』(1968年)を(先ごろ亡くなったこの偉大な監督へのオマージュもかねて)考察の対象とする。
セッション2 「写真と日常」
橋本 一径 (早稲田大学)
「三脚、自撮り棒、ドローン--カメラの支持体の歴史」 (日本語)
カメラの歴史は詳細に語られている一方で、カメラを地面に支えるもの、つまり三脚の歴史については、ほとんどのことが知られていない。三脚はカメラにとって、常に消し去りたい存在であったことが、その原因の一つである。カメラが日常生活に入り込むためには、望遠鏡や機関銃の歴史と結びついた、この三脚から解放される必要があったのだ。だがコンパクトカメラの登場は、それまでの写真と異なるイメージを生み出すことになったのだろうか。本発表は、手持ちカメラの写し出すイメージが、言わば三脚の亡霊を抱え続けてきたことを明らかにするとともに、自撮り棒やドローンが、これまでとは異なるイメージを生み出す可能性について検証する。
キャサリン・クラーク (マサチューセッツ工科大学, アメリカ)
「素人写真家と日常のアーカイヴ 1970年、パリ」 (仏語)
Fnacは1970年、フランス放送協会、パリ県知事、警察知事と地方参事会の後援を受け、アマチュア写真家コンクール「これが1970年のパリだった」を開催した。そこで展示された写真が露わにする、日常的なものについてのさまざまな観点を浮き彫りにするのが本発表の目的である。このコンクールには15,000人以上が参加し、当時のパリを忘却から救おうとした。かれらは街の隅々を写真に収めることで、首都全体を網羅するアーカイヴを構築しようとしたのである。現在パリ市歴史図書館に保管されている100,000もの写真は、急速に変わりつつある都市と————パリ住民の日常生活のアーカイヴとなっている。
セッション3「日常とその理論的把握の試み」
パトリック・フレンチ (キングス・カレッジ・ロンドン, 英国)
「バルトとオブジェ 日常的なものの唯物論に向けて」 (仏語)
第二次世界大戦後、とりわけアンリ・ルフェーブルの仕事を通過することで発展した「日常生活批判」と、「平板な存在論」(ガルシア)や「オブジェたちの民主主義」(ブライアント)、ないし「生物体」(ベネット)や「あれそれ」(ボスカグリ)の肯定へと向かう現代の哲学的・理論的方向性のあいだにはいかなる関係があるのだろうか?日常生活批判とは、日常生活の唯物論へと向かう全般的な戦術の一部をなしているのだろうか?これらの問いに答えるにあたって、わたしはまず、ロラン・バルトの仕事におけるオブジェへのさまざまなアプローチを検討したい。
バルバラ・フォルミス (パリ第1大学, フランス)
「「日常 le quotidien」も「凡庸 le banal」も超えて : 生の美学としての「ありきたり l’ordinaire」」(仏語)
「ありきたりのものl’ordinaire」とは、「日常的なquotidien」ものでもなければ(というのも、ありきたりなものはより拡張した時間のなかで展開するから)、「凡庸なbanal」ものでもない(というのも、ありきたりなものは過去や既知のものに貼り付いていないから)。ありきたりなものとは、生の美学的な形式なのである。美学が芸術を概念生産の特権的な座とみなしているのは、芸術が感覚的なもののただなかで機能しているからであり、この感覚的なものとは何よりもまず非人称的で間主観的なものなのである。とりわけ「生身の人間による芸術l’art vivant」の実践(特にダンス、パフォーマンスや演劇)は、複数の主体のあいだの複合的な体験のさなかに作品を位置付けるため、芸術作品をひとつのオブジェに同定する古典的な操作を越え出てしまう。かくして美学は、一作品に固有の美学的体験の意味をありきたりな体験の意味へと結びつける、身体の真の哲学となる。哲学はそのことによって芸術的実践のなかに根を下ろすことになり、ありきたりな生の創造性に言及する美学の構築が試みられることになる。
セッション4「日常と生の様式」
国末憲人 (朝日新聞)
「食をめぐる日仏の日常と非日常」 (日本語)
フランスで100年以上の歴史を持つレストランの格付けガイド「ミシュラン・ガイド」の東京版が2007年に発行された際、日本では激しいバッシングがわき起こった。「日本の味覚はフランス人にわからない」「ラーメン屋が入っていないじゃないか」「フランス料理への評価が甘すぎる」等々の批判がメディアにあふれた。こうなった背景には、外食を日常の生活に組み込んできた日本と、非日常的な場として受け止めてきたフランスとの、意識の差がある。両国の「外食」「レストラン」の変遷を通じて、食の日常感の違いを考えたい。
長谷川一(明治学院大学文)
「〈アトラクション〉としての日常──テクノロジーと身体の遊戯」 (日本語)
本発表では、日常の今日的様相を捉える新しい視座として〈アトラクション〉という概念を提案する。〈アトラクション〉とは、ちょうど東京ディズニーランドの遊戯機械に典型的に見られるような、テクノロジーと身体とが同期して織りなす協調的な運動系のことだ。それは一種の参加体験型の学習機構であり、状況に巻きこむことで人びとから外部への想像力を奪う、より洗練された支配を可能にする。同時に〈アトラクション〉は、みずからを内から相対化する契機をも孕むという点で、両義性を帯びている。こうした観点から、日常の諸実践を遊戯的な場として把捉・探索する可能性を示す。
セッション 5「日常の色彩」
田中純 (東京大学)
「日常の色──牛腸茂雄の写真を通して」 (日本語)
牛腸茂雄(1946-1983)はいわゆる「コンポラ写真」を代表する写真家のひとりとして知られている。本発表では生前最後の写真集『見慣れた街の中で』を中心に、牛腸がその序文で「日常という不透明な渦の中で増殖しつづける生き物」と呼んだ「人間存在の不可解な影」をめぐり、写真における色彩の心理的・情動的作用を通して考えてみたい。ロールシャッハ・テストに似たインクブロット画集『扉をあけると』などの作品も取り上げる予定である。
セッション6「消費社会の日常」
ベン・ハイモア (サセックス大学, 英国)
「ライフスタイル、嗜好形成と日常生活批判」(英語)
アンリ・ルフェーブルの広範にわたる日常生活批判は、その対象(現代世界における日常生活)を一貫して、歴史的・弁証法的諸力の所産として位置づけている。そのことを最もはっきり示すのが、消費者ベースのライフスタイル文化に関する分析であり、ルフェーブルはこの文化を、古くからある、より有機的な生活スタイルの資本主義的再配置と読み解くのである。ルフェーブルにとって新しいライフスタイル文化は、日常生活内部におけるわれわれの疎外が大規模化していることを露わにすると同時に、現代生活批判を差し迫った課題として指し示すものであった。
歴史的・弁証法的アプローチの複雑な絡み合いは、歴史的な事例の解読に適用されるときさらに明らかになる。1964年に開業した英国のライフスタイル店Habitatは、地中海地方の食材や飾らない人付き合い、日本風のインテリア美学などに想を得たライフスタイルを提供する趣味形成の場として機能した。Habitatは現代的なインテリア・デザインを民主化することを望んだが、結局のところ日常生活の不均衡を悪化させてしまった。それは都市のジェントリフィケーションに新たな装いを供給すると同時に、中産階級の急進主義に空間演出術を提供することになった。本発表の目的は、Habitatを対象にしたケース・スタディーによって、消費文化の経験的分析にルフェーブルの業績がどこまで有効であるのか探ることにある。
12月6日(日)
セッション7「日本の古代・中世における〈日常〉」
田村 隆 (東京大学)
「紫式部はどのように「日常」を綴ったか」 (日本語)
平安時代に紫式部によって著された『源氏物語』は、ごく一部の貴族達が登場する宮廷文学という意味では「非日常」の物語と言えるかもしれないが、その「非日常」の中にもやはり「日常」と「非日常」とが存在する。1000年前の「日常」が『源氏物語』あるいは『紫式部日記』においてどのように注意深く綴られているかについて、「和歌と散文」、「漢字と仮名」という二つの側面から考えてみたい。
並木 誠士 (京都工芸繊維大学)
「16世紀日本における風俗画の成立-酒飯論絵巻をめぐって-」 (日本語)
風俗画というジャンルは、人びとの日常生活を描いた絵画として16世紀に成立をする。その起源のひとつとなったのは、京都の町を描く洛中洛外図である。洛中 洛外図は、応仁の乱後の京都を描いた都市図として御所や将軍邸、さまざまな名所を描くが、そこには町通りを歩く人びとの日常が様子が見られる。そして、風 俗画のもうひとつの源流になったのが酒飯論絵巻だ。酒飯論絵巻は、酒好き、ご飯好き、両者ほどほどの三名が論争する絵巻だが、描かれているのはさまざまに 展開される飲食の様子だ。ここでは、飲食をテーマにした人びとの日常が露わに描かれている。
発表では、風俗画の成立に酒飯論絵巻が果たした役割について紹介してみたい。
セッション8「フランス・ルネサンスと日常」
久保田 剛史 (青山学院大学)
「モンテーニュの『エセー』あるいは日常を書くこと」 (日本語)
『エセー』は、作品中において「著者と同一の実体をもつ書物」と形容されているように、公職の外部に身を置いたモンテーニュが、閑暇と思索の生活のさなかで執筆に取り組み、生涯にわたって加筆を重ねた作品である。実際に、この作品では、モンテーニュ自身の身体的あるいは精神的特徴が「単純で、自然で、ごく普通の」状態で記されているだけでなく、彼が日常の読書経験を通して紡ぎあげた古代作家たちとの対話が綴られている。さらには、同時代の社会に対する考察や、モンテーニュ自身が日頃の生活において注目した卑近なテーマなども、作品における重要な題材となっている。そこで、本発表では、『エセー』における自己描写や日常世界の記録、そして作品に見られる表現形式などに着目しつつ、モンテーニュがいかにして日常性から普遍的な英知を見いだしたのか、という問題について論じてみたい。
セッション9「18世紀から19世紀初頭における日常」
井田 尚 (青山学院大学)
「啓蒙期の作家における日常 ー ディドロの場合」 (日本語)
「日常」という言葉は民衆の「日常生活」を連想させるが、当時の辞書を参照すると分かるように、十八世紀のフランスにおいては事情が異なった。故に、日常生活の概念はかなり近代的な発明によるものと言えよう。日常生活の概念は往々にして、私的時間や余暇をその余白とする職業労働の時間割に管理される規則的な生活リズムを前提とするように思われるからである。
しかし、宮廷社会が好む高貴で非時間的な主題を多く扱う古典主義文学においては民衆の個人的・集団的生活の日常的側面があまり知られていなかったとしても、近代のとば口に立っていた啓蒙期の作家達も同様に知らなかったということにはならない。
本発表では、ディドロやメルシエらの作家がいかにパリ市民の都市生活の日常をそれぞれの作品で文学的に再現しようと努めたかを明らかにしたい。中でも、ディドロが私人として、また作家として、どのように日常世界を表象したのかに着目したい。
大屋 多詠子 (青山学院大学)
「曲亭馬琴の「日常」」 (日本語)
曲亭(滝沢)馬琴(1767―1848)は、江戸時代後期を代表する作家である。読本『南総里見八犬伝』をはじめ膨大な著作があるが、筆まめな馬琴には、さらに『馬琴日記』等、自身の生活や滝沢家の記録も残る。本発表では『馬琴日記』等の手記を手がかりに、作家の「日常」の一端を覗いてみたい。また馬琴の「日常」がその著作にどう映し出されているかについて、特に黄表紙(江戸時代の大人向けの漫画)というジャンルに注目して探ってみたい。
セッション10「19世紀後半から20世紀前半における日常」
ニコラ・モラール (日仏会館)
「明治時代の小説における日常性」 (仏語)
一見したところ、日常的なものに向けられた美学的関心ほど19世紀後半の日本社会とかけ離れたものはない。黒船来航(1853)から日清戦争(1894)、日露戦争(1904)へと至る期間とは、日本が大きな社会的・政治的変動に見舞われた時期にあたり、人びとの意識はむしろ強い不安定感に囚われていたと言える。フィクションとしての文学は、こうした変動の激烈さに喜んで(程度の差こそあれ)応答しようと努めた。大衆の興味は三面記事的なもの(なかでも不健全な内容のもの)、西洋化に伴う新規な習俗の社会風刺、翻訳文学(ヴェルヌ、デュマ)や政治的小説の奇想天外さへと向かっていた。それゆえ、日常的なものについてのエクリチュールは他のジャンル————日記、詩、筆の赴くままにつづられた随想————のなかに閉じ込められていたのであり、それが小説を深みへと導くようになるには、正岡子規、国木田独歩や夏目漱石の実験を待たねばならなかったのだ。しかしながら、いわゆる「近代的な」最初の小説作品が登場してすぐ、『当世書生気質』(1885)やそれを範とする作家たちのなかに、波瀾万丈な小説に身をゆだねる誘惑と、ありきたりな生活を物語化する計画とが、拮抗するかたちで共存するのを見てとることができるように思う。本発表では、近代最初期の何人かの作家たち(坪内逍遙、二葉亭四迷、幸田露伴)の例を検討することで、全般的なパースペクティヴのなかで日常的なものの概念に接近を試みたい。
平田 周 (日本学術振興会・獨協大学)
「永遠性から日常性へ?ーブルトンとルフェーヴルの思想が交わる場」 (仏語)
「永遠性から日常性」へという移行は、近代を理解する際に参照される教権から俗権への移行と類似したものだろうか。この語の多義的な意味がそうした移行に切り縮められることは、疑わしいのだが、問題は近代という時代なのであり、この時代においてこそ、日常生活は理論的対象として浮かびあがる。ピエール・マシュレーが述べるように、日常性をめぐる省察は、「形而上学の終焉」を経て、哲学的人間学へと向かう哲学的転回として現れる。この人間学は、「原理において神の秩序の秘密を暴きだす可能性」から袂を分かつ、つまり、ニーチェの言葉で言えば、背後世界の幻想との断絶を示すのである。したがって、問題は、日常生活の彼方にある叡智界を明らかにする仕方ではなく、日常生活において、単一の合理化に抗するもの、すなわち謎を発見し、解く仕方なのである。
本発表の目的は、この神秘化の両義性を明らかにすべく、ブルトンとルフェーヴルにおける日常生活の理論化作業をつき合わせてみることにある。
セッション11「戦後日本文学における日常」
桑田光平 (東京大学)
「「くらし」のリトルネロ:日本戦後詩に関するいくつかの考察」 (日本語)
「戦争」、「死」、「哀悼」などと同様に、日本の「戦後詩」において中心的主題となっていた「くらし」–この場合、「くらし」とは「日々のくらし」を指す–について、北村太郎、岩田宏、吉岡実などの詩人を取り上げながら、彼らがいかに「くらし」を詩のなかに定着させたのかを検討し、「日常」表象についての諸問題を明らかにしたい。
塚本昌則 (東京大学)
「三島由紀夫と非人間の詩学」 (日本語)
「お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物(いきもの)だ」、と『仮面の告白』の主人公は自分に言いきかせる。自分は人間ではないという認識は、三島の小説にどのような力線をもたらしているのだろうか。ボードレールやヴァレリーなど、三島自身が言及するフランス近代作家にみられる「非人間の詩学」を参照しながら、この問題について考えてみたい。自己の内部において二つに引き裂かれているという意識、人間たちの社会から排除されているという意識、そもそも人間の生活を理解できないという感情は、近代文学において稀なものではない。しかし、それがどのようにして三島の小説世界の造形に結びついているのかという点は、十分に考察されていないのではないだろうか。『仮面の告白』を中心に、三島由紀夫の「非人間の詩学」について考察する。
セッション12「日常の裂け目」
塩塚 秀一郎 (京都大学)
「日常と暴力:フランス現代文学における都市風景への視線」 (仏語)
ジョルジュ・ペレックによる〈並以下のもの〉への着目に触発され、幾人かの現代作家たち(フランソワ・マスペロ、フランソワ・ボン、フィリップ・ヴァセなど)は、自らの生に制約を課すという独特のやり方で、現代都市の日常を記録する書物を残している。また、ペレックとは直接関わりをもたないものの、フリオ・コルタサルやジャン・ロランらも、同様の試みを行っている。本発表では、これら現代作家によるルポルタージュにおいて、日常の記録によってしばしば戦争・紛争・破壊が喚起されていることを指摘したのち、なぜ日常が暴力を喚起せざるを得ないのか、また、対極的とも言える二つの概念がどのような関係にあるのかについて考えてみたい。
ブルース・ベグ (ボルドー大学, フランス)
「日常の恐怖 極限状況におけるトラウマと順化」 (仏語)
『日常の発見』(2005年)では、われわれはつぎのような考えを主張した。すなわち、日常のリズムに応じて世界に順化する〈日常化〉のプロセスは、さまざまな生きられた状況を親密化したり鎮静化したりする効果をともなう、という考えである。われわれは、この考えをさらにテストすべく、それを戦争や強制収容所における経験、災害といった極限の状況にあてはめ、うえのプロセスで形成された習慣のもつ日常的な基盤が、生に対するこのような衝撃に耐えられるか、それから、混沌とした未知の状況のなかで、慣れ親しんだ基準が破壊され、場合によってはあらたな基準がつくられるとき、それらをつうじて日常の生のうわべをとりもどせるかについて、確かめてみたいと思う。最後に、われわれは、そのような極限の状況から脱することや、「ふつうの」生活にもどることについても考察する。まとめるなら、この発表で論じられるのはつぎの三つの契機である。まず、衝撃的な出来事による〈非日常化〉、つづいて、極限の状況やトラウマ的な状況においてなされる、奇妙かつ不確かな〈再日常化〉、そして最後に、以前のふつうの日常にもどれるかどうかの可能性である。